幻影の明治 名もなき人びとの肖像

 江戸の人々の生活の肌触りを丁寧に掘り起こした「逝きし世の面影」の著者、渡辺京二が明治の人々について書く。

 

「第一章 山田風太郎の明治」では、山田風太郎の明治期に題材をとった推理小説から、庶民の行動、考えていたことを説き起こす。

 

「第三章 旅順の城は落ちずとも」で司馬遼太郎の「坂の上の雲」の書き出しをこき下ろしているところが面白い。

明治初年の日本ほど小さな国はなかったであろう。産業といえば農業しかなく、人材といえば三百年の読書階級であった旧士族しかいなかった。

国としてはポルトガルやオランダのほうがすっと小さいし、江戸時代末期には日本各地で特産品が生産され市場経済は豊かに花開いていた。また、町人、農民にも学問、武術は浸透していた。渋沢栄一も、間宮林蔵も農民出身だ、なんて与太話をしているんだと、けちょんけちょん。明治維新を素晴らしかったと持ち上げるために、江戸の日本を矮小化しているんじゃないかと言います。

 

「第四章 士族反乱の夢」は自由民権運動を扱う。著者は、自由民権運動とは、他藩の士族が薩摩、長州藩の権力独占に異議を唱え、士族層全員に参政権を与えるように要求した政治運動であり、決してルソーの思想に影響された平民の運動ではないと、冷めた見方をする。

 

様々な先入観にとらわれることなく、資料を丁寧に読み込んで、時代の雰囲気、気分を掘り起こそうとする姿勢に魅かれる。

幻影の明治: 名もなき人びとの肖像

幻影の明治: 名もなき人びとの肖像

 

 

逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)

逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)

 

 

セカンドハンドの時代 「赤い国」を生きた人々

 ベラルーシ出身のノーベル賞作家スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチがソビエト時代のことやソビエト崩壊後の暮らしのことを、市井の人々から聞き取ってまとめた本。インタビューの時期は1991年から2012年。

 

600ページが文字でびっしり埋め尽くされている。人々が話す内容は、1917年のロシア革命の頃、赤軍兵士として村の富農一族を皆殺しにしたこと、スターリンの時代に両親が政治犯として強制収用所に連れ去られ、親戚の間でたらい回しになりながら育ったこと。ナチスドイツとの戦いに兵士として参加したものの、捕虜になったばっかりに戦後に迫害された話。誰かの密告により逮捕され、仲の良いご近所さんに子供を託してシベリア送り、17年過ごして帰ってきたらソ連崩壊。過去の公文書を閲覧できるようになったので自分が逮捕された経緯を確かめに行ったら、子供を託していたご近所さんが密告していたことが判明した話。ソ連崩壊後のカフカス地方での民族紛争で家族を殺されたロシア人。難民となってモスクワに逃れてきたアルメニア人、アゼルバイジャン人。ゴルバチョフペレストロイカに希望を託したけれど、ソ連が崩壊して全てを失い文字通り路頭に迷う人々。アフガニスタン紛争から帰還したものの、精神的におかしくなって飲んだくれになってしまった兵士たち。

 

彼ら、父の世代は失望している。二重の敗北感をいだいているんです。共産主義思想そのものが破綻したこと、そして彼らは、そのあと起きたことが理解できず、受け入れることができないでいる。彼らが望んでいたのはべつのもの、もし資本主義なら、人間の顔をした、魅力的な笑顔の資本主義。いまの世界は彼らのじゃない。よそ者の世界。

 

幸せな話はほとんでない。ありとあらゆる不幸が綴られる。これでもかというくらい逮捕、拷問、虐殺の話が登場する。平凡な日常生活の裏にあって、何かのきっかけで噴出してくる暴力。

 

20世紀のロシアに特有のことだも思えない。アフリカ、中東、南米、ヨーロッパ、アメリカ。世界のどこであれ、何かあれば敵と味方を区別を前面に押し出して暴力が前面に出てくる。

 

この70年間の日本が幸運だったのかもしれない。

セカンドハンドの時代――「赤い国」を生きた人びと

セカンドハンドの時代――「赤い国」を生きた人びと

 

 

牡蠣のオイル漬け

広島のおばさんが、たくさん牡蠣を送ってくれた。いつもなら酒蒸しにしてみんなで食べるところなのだが、今年は息子の受験が目前に迫っているので、万が一のことを警戒して私以外は食べたくないと言う。私一人では一度に全部食べきれないのて、よく火を通してオイル漬けにした。

 

殻ごと中華鍋に入れて酒蒸しににする。殻を開かせたところで身を取り出す。身をニンニクと鷹の爪で香りをつけたオリーブオイルと日本酒で蒸し煮にする。水分が煮詰まったら醤油をたらして煮詰まった牡蠣のエキスをからめる。

 

牡蠣を広口瓶に詰めてオリーブオイルを入れて完成。殻付きで一斗缶に半分くらいあったがオイル漬けにしたら瓶に収まった。今週のおつまみが完成。

 

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石引パブリック

土曜の午後、散歩がてら歩いて県立図書館へ本を返しに行ったついでに、図書館の裏の階段を上って、出羽町に上がりそのまま、石引パブリックに行ってきた。

 

デザイナーの方が経営しているので、アートやデザイン系の本ばかりかと思ったら、食べ物系、音楽、映画、人文系など幅広い分野の本がこじんまりとまとめて置いてある。私の好みの本がたくさんあったので1時間ほど立ち読みして、「書いて生きていく プロ文章論」と「断片的なものの社会学」を買ってきた。

 

店内には、お茶できるスペースもあって居心地が良さそう。繁華街からは遠いし、小さなお店だけれど、私が立ち読みしている間にも4、5人のお客さんが来ていました。

printing - 本と印刷 石引パブリック

断片的なものの社会学 人の語りを聞くということは、ある人生のなかに入っていくということ。

著者は社会学者の岸政彦さん。沖縄から本土に出稼ぎに来た人たちにインタビューした「同化と他者化 戦後沖縄の本土就職者たち」や、ホームレスや同性愛者などの身の上話を綴った「街の人生」などの著書がある。

 

この本は、市井の人たちにインタビューする中で出会った、本に取り上げるほどではないくらい些細だけれども、心に突き刺さったエピソードとそれを巡る著者の考察からできている。

 

元ヤクザ、風俗で働く女性、ハンセン病患者、新世界の路上でギターを弾くおじいさん。普通じゃないとレッテルを貼られた人たちのことを知ることは、普通の人の社会のあり方を知ることだ。と著者は言います。

いま、世界から、どんどん寛容さがや多様性が失われています。私たちの社会も、ますます排他的に、狭量に、息苦しいものになっています。この社会は、失敗や、不幸や、ひとと違うことを許さない社会です。私たちは失敗することもできませんし、不幸でいることも許されません。いつも前向きに、自分ひとりの力で、誰にも頼らずに生きていくことを迫られています。

 

理不尽で惨めで辛いけれど、そんな状況になんとか折り合いをつけて生きていく。それは、弱者と言われる人に限られるのでなくて、普通の側にいる人間にとっても、明日にでも起こりうること。どうすべきかという答えを教えてくれる訳ではない。ただ向き合う。現代版の「日本残酷物語」のようだ。

断片的なものの社会学

断片的なものの社会学

 

 

書いて生きていく プロ文章論

 このブログを書き始めたのは、今の仕事に転職して文章を書く機会が増えたから。それまでは経理で働いていたので作る資料は基本スプレッドシートのみ。説明の文を書くとしても箇条書き程度だった。ぐだぐだと長く書くのは嫌われた。

 

それが転職してからは、挨拶文やら答弁案やらとやたらと長い文章を書く羽目になった。それで一番困ったのが、まず、求められる分量を書けないこと。次に考えていることがちょうどいい具合に相手に伝わるように書けないこと。言葉足らずになったり、相手に不快感を起こさせるような強すぎる言い回しになったり、必要以上にどうでもいいことを細かく説明してみたり。

 

とにかく毎日少しでも書けば上手くなるんじゃないかと思い10年前にブログを書き始めた。書き続けてみて自分が一番変わったと思うのは、上手く書こうとしなくなったことだ。最初の頃は、少しでも気の利いたことを書こうとか、上手い言い回しはないかとか、賢そうに思われたいという気持ちが先走ってしまい、キーボードを前にしてうんうん唸っていた。

 

今はこの文章で書きたいことはこれ、とテーマを一つだけに絞って、素直にストレートに文字にしてみる。あとはその補足のつもりで前後に文章を付け加える。書いていると色々と言いたいことが頭に思いうかぶが、テーマは一つだけ。

 

この本には、誰に何のために書くのか明確になっていますか? 形容詞を多用してないですか?など、文章を書くときの実践的な心得と、インタビューする際の心得が、わかりやすく書いてあります。仕事で文章を書いたり、商談で人に会って話を引き出すことがある人にオススメです。

書いて生きていく プロ文章論

書いて生きていく プロ文章論

 

 

岩波講座日本歴史 第2巻 古代2

 この巻では6世紀から7世紀を扱う。推古朝から持統朝にかけて、蘇我氏が台頭して大化の改新が進んでいく頃このこと。

 

仏教の受容や、蘇我入鹿が暗殺され蝦夷が自害に追いこまれた「乙巳の変(いっしのへん)」、それに続く大化の改新は、隋・唐や百済新羅高句麗にいかに向き合い、生き残っていくかを模索する中で行われたというのが、私にとっての新たな視点だった。

 

百済が滅亡すると百済から棄民を受け入れ、朝鮮半島の政治制度や学問、技術を導入し、新羅が台頭すると高句麗と組んで対抗する。唐にそれなりの国として扱われるために、唐の制度や唐風の衣服を導入する。日本という国号自体が、唐や朝鮮半島の三国に対峙しようという意識のもとで生まれたという。

 

高校で日本史を勉強して以来、この時代のことには全く疎かったので新鮮な気持ちで読むことができました。

古代2 (岩波講座 日本歴史 第2巻)

古代2 (岩波講座 日本歴史 第2巻)

 

 

妄想女子

娘は中学1年生。毎日楽しそうに学校に通っているのはいいのだが、勉強は苦手なようだ。特に数学と理科が苦手だ。この前は期末テストの理科の点数が48点で、妻にひどく叱られて泣いていた。

 

得意なのは国語。普段家で会話していても、いろんな言葉を知っているし、かいつまんで要約して説明するのもうまい。例えの言い回しも気が利いている。

 

この前、晩御飯の時に話しをしていたら、彼女は「妄想ノート」を持っていることが判明した。湧き上がる妄想を毎日ノートに書き込んでいるそうだ。書き始めるとやめられなくなって勉強が手につかないので、試験期間中は妄想ノートをベッドの下に押し込んで封印しているそうだ。妄想の内容は、お父さんは日本でサラリーマン、お母さんはニューヨークの国連職員、子供は日本のおばあちゃんのところで暮らしている・・・。とキャラクターを設定して物語を作っているらしい。

 

「一度読ませてよ。」と言ったら「ダメ。」と即座に断られた。妄想は浮かぶがままに放っておくと、暴走して日常生活に支障をきたすので、その都度ちゃんとノートに書き留めて成仏させるように、とアドバイスしておいた。

 

今日も、振り替え休日で一人で家にいたら、「パンがオーブンの中でふわーっと膨らむように、妄想が広がってしまって大変だっった。」そうだ。

 

娘、大丈夫か。

 

長平

尾張町のおでん屋さん。姉妹二人で切り盛りされている。メニューはおでんとカウンターに並んでいるお惣菜がいくつか。金沢駅周辺のおでん屋さんはいつも混んでるし、ここはお惣菜もおいしいのでちょくちょく通うようになった。

 

最近のお気に入りはナマコ酢。ナマコの薄切りと大根おろしを酢の物にしたもの。ゆずが効かせてあって量もたっぷりなのでナマコ好きにはたまらない。これで燗酒を飲む。おでんは、いものこ(里芋)が味がよくしみておいしかった。さつま揚げも厚揚げも大ぶりなのがいい。

 

常連さんとお店の人との会話が地元密着で面白い。近江町市場は観光客向けの立ち食い屋台のようになってしまい、普段の買い物に行くような雰囲気でなくなってしまった。地元の人は、向かいのデパート、エムザの地下食品売り場に流れているらしい。

 

ナマコ酢とおでん(さつま揚げ、いものこ、車麩)で、お酒2合飲んで1,900円でした。

 

 

暗がり坂

仕事帰りに、尾張町のおでん屋さん「長平」に寄っていこうと、尾張町の裏通りを歩いていると、向こうから若い女性が歩いてくる。スマホ片手に道に迷っている様子。観光客かと思いつつも、そのまますれ違おうとすると、スマホを見せながら英語で話しかけられた。日本人かと思ったら中国からの観光客だったようだ。

 

スマホの画面の「暗坂」と「明坂」を指差してここに行きたいと言う。尾張町から主計町へと降りていく坂道、「暗がり坂」と「あかり坂」のことか。確かに尾張町からだとどちらも入り口がわかりづらい。暗がり坂は神社の横をずっと入ったところだし、あかり坂も住宅の入口にしか繋がっていないような細い路地の奥にある。

 

OK. follow me. と言って、暗がり坂につながる神社へ向かって歩き出す。日が暮れて辺りは暗いし、神社の奥の人目につかないところへ連れて行くことになるので、変に意識してしまい無言で歩く。ようやく、坂の降り口までたどり着き、This is Dark slope.というと、にっこり笑って、Thank you.と言われて別れた。

 

どこから来たの?とかもっと話せばよかったかな。それにしても、暗がり坂なんてマニアックな場所をよく調べて来たもんだ。でも、若い女の人が、異国の地で夕暮れの路地裏をウロウロするのは危険だろ。など考えながら引き返す。

 

金沢の街と人を信頼されていると受け止めることにした。そう思うと少しうれしい。

 

 

 

 

パンチェッタ

年末に仕込んだパンチェッタがいい色になってきたので味見した。作り方はこちらを参考にした。 

「1ヶ月で出来る自家製パンチェッタの本格熟成レシピ」<材料>

 

豚肉を塩漬けにして冷蔵庫で一ヶ月寝かせるだけだ。ポイントは、「ピチット」という商品名の食品用の脱水シートを肉に巻きつけておくこと。浸透圧の原理で肉の水分がシートに吸い取られていく。もう一つは、腐敗を防ぐため「ピチット」を取り替えるときなどに、こまめにアルコールで肉を消毒すること。

 

まずは薄くスライスしてフライパンで焼いてみる。肉から水分が抜けて随分赤身の色が濃くなった。塩気は少し強いけれど、熟成した旨みがたっぷり。朝食の目玉焼きにソテーしてつけると最高だろう。2品めはパンチェッタをダシにして白菜を煮てみる。脂の旨み、甘みが白菜に染み込んでたまらん。今のところお腹も痛くなっていないので腐ってることもなさそうだ。

 

カルボナーラにポトフ、シンプルに野菜炒めにも使ってみたい。今回は1キログラムの塊肉で仕込んだけれど、すぐに無くなりそう。次回は2キログラム仕込もうと思う。

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オカモト 業務用ピチット 32R(32枚ロール)

オカモト 業務用ピチット 32R(32枚ロール)

 

 

幻視の座 能楽師・宝生閑 聞き書き

 宝生閑は下掛宝生流のお家元で人間国宝にもなっている方。下掛宝生流というのはワキ方の流派。能楽では主役となるのがシテ方ワキ方シテ方の相手となる役割。

 

能には、諸国一見の僧がワキ方として登場し、ワキ方の夢の中に死んだ人の魂がシテ方の姿をとって現れる「夢幻能」という形式のものが多いそうです。この本のタイトルの「幻視の座」はそんなワキ方の役割を表したものです。

 

聞き役である著者はこの本の中で、宝生閑の能楽を見て感動して涙が止まらないとか、宝生閑の立ち姿を見、謡曲を聞いて能楽の場面が目の前にありありと立ち現れるようだと言っている。好きな人にはそんな感動を呼び起こすのかと思うが、見始めたばかりの私にはもう一つピンとこない。

 

しばらくは、わからないなりに能を見ていきたいと思う。

幻視の座―能楽師・宝生閑聞き書き

幻視の座―能楽師・宝生閑聞き書き

 

 

豚の味珍

 「豚の味珍」は、横浜駅の「きた西口」を出てすぐの所にある狸小路という飲み屋街の中にある。夕方の早い時間に行ったにもかかわらず、カウンター席は半分以上お客さんが座っていた。メインのメニューは豚の頭、耳、舌、胃、足、尻尾。サイドメニューとして白菜の漬物や皮蛋などがある。隣のお客さんが何食べてるか様子をうかがいつつ、頭と瓶ビールを注文する。

 

頭は豚の頭の皮と肉を丸めて棒状にしたものを醤油で煮込んでスライスしたもの。周りにゼラチン質の層で、中心部は赤身の肉だ。お店の人が「つけダレの作り方わかりますか?」と聞いてくれたので、素直に「初めてなのでわかりません。教えて下さい。」とお願いする。カラシを小さじに山盛り小皿にとり、酢を注いでカラシをとく。そこに醤油を少々たらして出来上がり。好みで辣油を追加してもいいらしい。

 

頭は、ゼラチン質の部分がベロベロした食感で面白い。肉の部分は意外とあっさりして食べやすい。あっさりしているのでビール飲みながらペロッと食べてしまったので、次は、尻尾を注文と焼酎を注文する。

 

 

尻尾は豚の尻尾を醤油で煮込んだものがぶつ切りになって出てくる。よく見ると中心部に骨が見える。一切れづつ口に入れてしゃぶりながら皮と肉を食べて骨だけ皿にもどす。こちらは脂身の旨味と皮のゼラチン質が相まって濃厚な味わい。梅シロッップで少し甘みをつけたストレートの焼酎と合う。

 

一皿のボリュームが結構あるので、この辺でお腹いっぱい。焼酎も効いてきて酔っ払った。他のお客さんを見ていると、肉もの一皿と白菜の漬物や皮蛋をつまみながら焼酎を飲んでいる。これなら1500円もあればへべれけに酔えそうだ。

 

横浜駅にも近いし、安くて旨くて居心地もいいので、また来ることになりそうだ。

www.maichin.jp

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白湯

この季節、朝起きぬけに白湯を飲むのが楽しみだ。鉄びんに水を入れてガスにかける。火は鉄びんの底に接するか接しないくらい。弱めの中火くらい。5分ほどでシュー、シューと湯が沸く音がする。この音のことを、お茶の世界では「松籟」といい、松林を風が通り抜ける時の音にたとえる。アルミやステンレスの薬缶からはでない音色だ。カルキ成分を飛ばすため、松籟を聞きながらそのまましばらく沸騰させておく。

 

急須で一旦受けてから湯呑みに注ぐ。少し冷めたぐらいのところを呑む。もわっとしたお湯が、前の晩の酒で疲れた胃袋の襞一枚一枚を優しく包んで染み込んでいく。お茶だと胃袋に吸収されるときに少し抵抗があるような気がする。

 

ストーブの前では黒猫が寝ている。

能はこんなに面白い!

時々、休日の午後に能楽堂に出かけて、椅子に座って半分居眠りしながら能を見る。謡の内容もよくわからないけれど、その場の雰囲気に浸っているのが心地よい。先日も金沢能楽会の定例能で「翁」を見てきた。いつもより豪華な衣装を着たたくさんの人が舞台に上がってにぎやかだなぁと思っていたら、「翁」は能の中でもお正月などの特別な時にだけ上演される演目だそうだ。

 

もう少し能のことについて知りたいと思いこの本を手に取った。著者の内田樹は評論家で武道家。観世流の能の稽古を20年くらい続けているそうだ。内田さんが観世流のお家元、観世清和さんと対談しながら、能をやっている人の立場から能の魅力を語る。「舞台の上は、場所によって空気の密度が違う。演者はその違いを感じながら舞う。」、「能は中世の人々の身体操作技法を現在に伝えている。」など実際にやっている人ならではのコメントが興味をそそる。舞台上でシテが倒れた場合には後見人が即座に引き継いで能を最後まで舞わなければいけないということも初めて知った。

 

今度は、しっかりストーリーやセリフを予習してから見に行ってみよう。全く知らない人にとっての入り口としてお手頃な本です。

能はこんなに面白い!

能はこんなに面白い!