見よう見まねで

「いなさ」のご主人がクレソンのサラダを作っているところを見ていると、クレソンをボウルに入れてオイルを注いでから何度も何度もクレソンを手でかき混ぜてオイルをまんべんなくクレソンの葉っぱ1枚1枚にまぶしている。それから酢と調味料を入れて再びかき混ぜる。しっかり味がなじんでいて、葉っぱを食べているのでなく、ちゃんと料理されたものを食べている感じがする。

 

見よう見まねで同じようにサラダを作ってみた。居酒屋さんでよくあるキャベツを塩昆布とごま油で和えたやつ。もう一つは、キャベツをオリーブオイルと酢で和えて塩コショウで味付けしたやつ。食べてみるとやはり、手でていねいに和えたサラダは違う。葉っぱをお皿に持って後からドレッシングをかけただけものとは全然違う。

 

春キャベツうまかったなぁ。

 

 

ゼブラ サラサドライ 0.7mm

先週から毎日大学ノートに2ページ日記を書くことにした。山田風太郎の「戦中派不戦日記」を読んで、誰に見せることもない日記を書いてみたくなったのだ。誰に見せるつもりもないので思いついたことをひたすら書きなぐっていく。1週間続けてるみたところ、平均30分から40分で書いている。最初は万年筆で書いてみたのだが、あっという間にインクカートリッジを使い果たしてしまうので、ボールペンで書くことにした。万年筆と同じように筆圧をかけなくてもスラスラと書けるようにと、太めの水性インクのボールペンを試した。その中で、このサラサドライはインクがすぐに乾くのが特徴らしい。書いてすぐに触っても指につかない。書き味もいい。しばらくはこれで書いてみる。

ゲルインクボールペン サラサ ドライ (0.7mm) 【ブラック】 JJB31-BK

 

なぜローカル経済から日本は甦るのか GとLの経済成長戦略

大企業と中小企業とで企業を分類するのでなく、グローバルの世界でトップを狙うのか、ローカル経済で着実に稼ぐのかで分類し、それぞれに合った成長戦略を適用すべきという内容。

 

自動車や電機などグローバルで競争せざるを得ない製造業は、雇用人数で言えば全体の2割程度、圧倒的多数の雇用は、商業や観光などのローカル経済に属する。グローバルの世界で生き残るのはオリンピックで金メダルをとるようなもの、そのためには国内のルールを世界標準にして、世界の超一流の人材を引きつけるようにしなければいけない。一方、ローカル企業に向けては、規制緩和によって従業員一人当たりの生産性を上げることを目指す。また、生産性の低い企業は市場から退出してもらい、高い生産性を実現できる、つまり高い給料を払える企業に人を集約する。

 

既に地方では、生産年齢人口の減少によって今後常態的に人手不足となるので、雇用維持を目的とした企業の延命策は不要、むしろ生産性の高い企業に雇用を集約することが地域全体の生産性を上げることになる。

 

現在の状況分析とそれを踏まえた政策の提案、ピシッと一本の筋が通った内容です。特に普通の人が普通に働いて食べていくためにどうすべきかについての道筋を提示しているのがいい。

なぜローカル経済から日本は甦るのか (PHP新書)

 

現象学という思考

現象学面白いわ。

 

意識と無意識。自我。現在と過去、未来。言語、等々について、自明なことから考えを積み重ねていく。自明とは当たり前すぎて普段は意識もしないことだ。目の前のものトマトをトマトと認識すること、トマトが赤いと認識すること。その仕組みを解き明かす。

 

トマトという実体、それをみる私という実体、赤いという本質が先にあるのではなく、それぞれの関係性の中で、全部が同時に立ち上がってくるというのが、現象学学の立場。すべてが移ろいゆくもの、諸行無常を説く釈尊の教えに近い。

 

フッサールの著書を読んでみたいと思った。

現象学という思考: 〈自明なもの〉の知へ (筑摩選書)

 

AI経営で会社は甦る

AIやIoTが今後の企業経営に大事だと思うのだけれど、どういうふうに受け止めて取り組んだらいいのか考えている人は読んでおくべき本。

 

まず、日本はこれから人口がどんどん減っていくので、景気の良し悪しに関わらず人手不足の状況が続いていく。既に飲食や小売業、医療、介護、物流などのローカル経済において人手不足が深刻な状況になっている、というのが大前提。

 

そのことから、今後のAIやIoTの普及は日本にとって大きなチャンスだと言います。なぜならば、既に移民を受け入れている欧米諸国では、AIやIoTによる省力化の成果を社会に実装する際に、大きな反発を受けるが、日本では人手不足が深刻なためそのような反発なしに世界に先駆けて導入できる可能性が高いからだ。

 

また、AIやIoT導入の効果は、既に厳しいグローバル競争の荒波に揉まれ続けた製造業よりも、地域性の強い、サービス業や物流業、医療介護のローカル経済に大きいと言います。

 

一方で、AIやIoTの仕組み自体は、いずれ誰かがデファクトスタンダードを確立することになるだろうから、中途半端に独自のものを作ろうとして消耗するよりも、ベストプラクティスを見極めてうまく利用して商売に結びつけるかが大事だと言います。ポイントは日本が得意なメカ(ハードウエア)の部分とソフトをどうすればうまく組み合わせることができるかだ。

 

電話やインターネットと同じように、AIも普及してしまえばそれが競争条件になるわけでないのだ。

AI経営で会社は甦る (文春e-book)

 

昭和前期の青春

くノ一忍法帖などの忍法もので一世を風靡した、山田風太郎のエッセイ集。この前読んだ「戦中派不戦日記」が面白かったのでこの本を手に取った。

 

この本は、「戦中派不戦日記」に至るまでの風太郎の生い立ちや、生まれ故郷である兵庫県日本海側にある小さな町の思い出が綴られている。ちょっとしたことだけど、同年代の人たちにしかわからないような、出来事が丁寧に書かれているので当時の気分を知ることができて面白い。

 

例えば、子供向けの雑誌「少年倶楽部」を毎月心待ちにして、少年倶楽部が届くと木に登って、グミやナツメの実を食べながら読んだ、という話。私の年代だと、学研の教育雑誌「学習」と「科学」。特に「科学」には蓄音機や写真機など子供の心を鷲づかみにする付録が毎号あって、3日ぐらい夢中で遊んだ。あの付録を心待ちにするワクワク感を自分の息子に伝えようにも、なかなかわかってもらえない。また、祖父の家にはグミの木があったり、近所の空き地にあったナツメの木に登り、ナツメの実を食べたことがあるので、ふふーんと思えるけれど、グミもナツメも見たことがない子供たちに、グミの甘酸っぱい味や、ナツメのサクサクした食感やほのかな甘みを伝えるのは至難のわざだ。

 

なんでもないことは、なんでもないだけに時代が変わると忘れ去れれてしまい、後から掘り起こすのは難しい。日記はそんな細かい時代がの気分を掘り起こす手がかりになる。しかし、人には見せるつもりがない昔の日記と、人に見せる前提で書いている今のブログとでは、書き込まれる内容が違ってくると思う。人に見せる前提だと当然だがあまり尖ったことは書きにくい。匿名にしても読まれることを意識すると微妙に書き方が変わるように思う。

 

大正11年に兵庫県の田舎町で生まれて、敗戦を23歳で迎えた年代が、どんな気持ちで彼らの青春時代、つまり昭和6年の満州事変からの十五年戦争を過ごしたかを知りたい人ににオススメです。

昭和前期の青春 (ちくま文庫)

いなさで野生クレソンのサラダ

汗ばむくらいにに暖かくなり桜も満開となった土曜の夕方、ふらっと、「いなさ」に行ってきた。

 

暖かかったのでまずはビールを頼む。今日はエビスの黒ビール。それと、「野生クレソンのサラダ」、「ホタルイカの天ぷら」をお願いした。

 

クレソンはご主人が山へ行って採ってきたもの。それをドレッシングで和えて鉢に山盛り出してくれた。口に入れてもそんな簡単にクタッとならないくらい茎がシャキっとして葉にも張りがある。山菜のこごみも入っている。春そのものを食べているようなサラダ。

 

2杯目は、富山県の林という日本酒。ホタルイカの天ぷらは、イカわたの濃厚なうまみがお酒に合う。

 

帰り道は少し遠回りをして浅野川沿いの桜を眺めながらぷらぷらと帰った。ごちそうさまでした。

生物から見た世界

他の生物にとって、この世界はどんな風に見えているのか。カタツムリ、ダニ、ゾウリムシなどの観察と実験をもとに解き明かしていきます。

 

例えば、カタツムリの目の前に1秒間に3回以上の頻度で棒を差し出すと、その棒の先に乗り移ろうとするそうです。カタツムリにとって1秒間に3回以上の出入りは識別できず、ずっとそこにあるものとして認識されるということです。人間にとって識別可能な頻度は1秒間に18回。光がそれ以上の頻度で点滅すると、ずっと点灯していると感じるそうです。視覚だけでなく聴覚や触覚など他の感覚でもその頻度は同じだそうです。また、ハエは1秒間に50回まで識別できるそうです。

 

つまり、カタツムリ、人間、ハエ、それぞれにとって時間の流れ方が違うのです。ハエの1秒は、きめ細かく認識できる分、長く感じれれているはずだし、カタツムリにとっての1秒は、人間よりも短いのです。

 

著者のユクスキュルは、生物それぞれにとって見えている世界が違うことを説明するため「環世界」という考え方を持ち出します。これは、生物は反射の積み重ねで動いている機械ではなく、環境を知覚して環境に作用を及ぼす主体(機械操作係)であり、主体が認識し作用する世界が、その主体にとっての世界の全てだという考えです。

なぜなら、主体が知覚するものはすべてその知覚世界となり、作用するものはすべてその作用世界となるからである。知覚世界と作用世界が連れだって環世界という一つの完結した全体を作り上げているのだ。

 

150ページほどの気楽な科学読み物で、記載されている具体例をたどるだけでも面白いですし、環世界という、現象学はじめその後の哲学者にも影響を与えた概念を示した本なので、オススメです。

生物から見た世界 (岩波文庫)

戦中派不戦日記

渡辺京二さんは「幻影の明治 名もなき人々の肖像」の中で、山田風太郎の一連の明治もの小説を題材にして、明治の時代の肌触りを再現している。この本を読んで山田風太郎に大変興味を持ち、彼の著作を読んでみたくなり、とっかかりとして昭和20年1月1日から12月31日までの日記をまとめたこの本を手に取った。

 

日本の劣勢が色濃くなっていく中、同年代の学生は次々に徴兵され戦地に向かうが 、東京大学の医学部の学生だった山田は、勉強を続けることができた。戦場に出かけることもなく、空襲下の東京を逃げ回り、長野県飯田へ大学と一緒に疎開しながら勉強を続けたという意味で、不戦日記なのだ。

 

1月から8月の敗戦まで、ほぼ毎日のようにB29が日本にやってきていることが意外だった。大規模な空襲が毎日あるわけではないけれど、小規模な編隊が来ても空襲警報が発令され、その度に人々は夜中に叩き起こされ防空壕に逃げ込む。これがほぼ毎日続く。

 

また、今日は新宿、明日は品川と次々に空襲で焼け野原になっていても、人々は自分が焼け出されるまでは、それまでと同じような日常生活を淡々と営んでいる。鈍感なのか諦めなのか恐怖に逃げ惑うということがない。いつもと同じように配給の列に並び、ご飯を作り仕事に行く。

 

8月15日の玉音放送の後、このまま敗戦を受け入れるべきか、それとも本土決戦に向けて立ち上がるべきかを、友人と徹夜で激論を交わす。天皇陛下の決断を受け入れるべきとの判断でクーデターまがいの計画は立ち消えになる。

 

また、進駐軍が来ると、これまで鬼畜米英と叫んでいた人たちがコロリと手のひらを返して、東条英機首相など軍関係者を悪者としてこき下ろす姿に、戸惑い憤っている。

 

もともと公開するつもりもなく書いた日記を、ほとんどそのままの状態で昭和48年に出版したものなので、天気のことや授業のこと、読んだ本のことなど単調な内容が続く部分もある。また、若者の妄想が暴走している日もある。でも、だからこそ大学生が当時何を思っていたかストレートに伝わってくる。間違いなく当時の社会の一面をそのまま切り取った記録となっている。

 

新装版 戦中派不戦日記 (講談社文庫)



 

 

いなさでウリボウのスペアリブロースト

年度末のアレヤコレヤを片付けて、職場を後にしたのが夜の9時。7年間お世話になった職場を離れて来週からは新しい部署で働くことになる。まあ、小さいながらもひとつの区切りということで、いなさに行って呑むことにした。

 

ひとつの区切りということで、これまで気になっていたけれど一度も食べたことがない、ウリボウのスポペアリブローストを注文する。「骨も含めて250グラムになります。ちょっと量が多いですよ。30分くらいかかります。」と言われたけれど、何にも食べずに腹は空いている。うまいもののためなら30分くらい待つ。断固とした態度で「お願いします。待ちます。」と伝える。

 

自然薯とカブ、にんじん、大根の古漬けをつまみに白ワインを呑みつつ、手際よくスペアリブが料理されていくのを眺めながら待つ。

 

フライパンに、肋骨5本分くらいの肉の塊をのせて塩胡椒をすり込み、油をかけてオーブンに入れる。15分くらい経ったら一旦フライパンを取り出して、コンロにかけてローズマリーを投入。フライパンににたまった油を肉にかけながら表面に焦げ目をつける。ローズマリーの爽快な香りが店内に拡がる。もう一度オーブンに入れて更に10分くらい待つ。

 

肉をオーブンから取り出して、肋骨の間に切れ目をいれて再び火をつけたコンロの上で油をかけながら火を通す。落ち着かせるためになのか、一旦コンロの上の棚に置いて、その間に付け合わせの葉っぱをドレッシングと和える。これでもかというくらい手でかきまぜて、ドレッシングを葉っぱ一の表面に均等に拡げる。

 

箸で食べやすいように包丁で肉を骨から削ぎ取って、薄く切ってお皿に葉っぱといっしょに盛り付けて完成。

 

待った甲斐あり。肉に臭みもなく絶妙な火の通し加減。脂身の外側の皮のゼラチン質の旨味と歯ごたえが良かった。1,500円と居酒屋の一品としては高い印象を受けるけれど、これだけで他に何もいらないくらいの満足感。赤ワインを2種類飲みながら、夢中に食べた。肋骨についた肉までしゃぶった。

 

ご主人がテキパキと料理する姿を眺めているのも楽しい。   ごちそうさまでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いつも「時間がない」あなたに  欠乏の行動経済学

明日に仕事の締め切りが迫っているのに全然できていない。時間が足りない。借金の返済期限が迫っているのに急な出費でお金が足りない。好きなだけ食べたいけれど、ダイエット中で十分食べられない。あたたかい人間関係が足りない、恋人や友達がほしくてたまらない。

 

こんなふうに何かが足りない、欠乏していると主観的に思ってしまうと、そのことが頭を離れななり、心の中の優先順位の1番を占めてしまう。そうなると、

  1. 集中力が高まり、問題解決のための土壇場の馬鹿力が発揮できる。
  2. 欠乏していると思っていることに集中するため、それ以外のことが頭に入ってこなくなり、いろんなことに対処する能力=処理能力が落ちる。

欠乏に追い込まれると一時的に1.の良い効果もありますが、長期的には2.の悪い影響が強くなるそうです。処理能力とは、認知したり論理的に推論する能力、自分の気持ちを制御して、優先順位をつけて段取りよく処理する能力のことです。能力の低下は、自分の心がけでどうにかなるものでなく、無意識のレベルのミリ秒単位の反応速度においても著しく低下するそうです。著者は、学生にゲームをやらせて実験したり、現実に貧困に困っている人を調査して、この仮説を検証していきます。

 

貧困に苦しんでいる人は、怠惰で能力がないから貧しいのではなく、貧しいから、仕事が手につかず、無能だと思われるし、貧しいから自分の感情を制御できず無断欠勤して、怠惰だと思われるようになるのだ。

 

貧困対策を立案する上では、貧しい人たちの心がけや処理能力に頼るような施策を避けなければうまくいかない。また、自分の仕事をうまくやっていくためには、自分の処理能力の総量は限られているのだから、睡眠や食事の時間を削って無理すると、しっぺ返しがくる、処理能力を無駄遣いしないようにというのが結論。

 

何かが欠乏している。もっともっと欲しいと思うのは、執着すること。執着が苦の始まりという仏教の考え方と同じじゃないかと思った。

 

いつも「時間がない」あなたに: 欠乏の行動経済学 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 

くらつき

来週は、年度末でいろいろと忙しくなりそうなので、今日は年休をとった。

 

今年大学受験したものの惜しくも浪人が決定して家でゴロゴロしている息子と一緒に図書館に行った。息子は自習室で勉強、私は面白そうな本がないかと物色する。寮に入って東京の予備校に通ったらと提案したが、彼は生活環境を変えたくないし仲のいい友達もこちらに残るからと、金沢で予備校に通うことに決めたのだ。いろいろ心配事は尽きないけれど、本人が決めたことだから私はできる限りサポートするだけ。

 

昼ご飯はせせらぎ通りにある「くらつき」という洋食屋さんに行く。ここは揚げ物やハンバーグなどの日替わり定食、カレー、オムライスを出すお店。メインの料理はもちろん、付け合わせのマカロニサラダや味噌汁、漬物も丁寧に作ってくれていておいしい。何よりご飯がおいしいのがうれしい。息子は日替わり定食、今日は鶏肉のカレー煮込み。私はカキフライ定食を食べた。カレー煮込みは骨付きのもも肉を、カレーで煮込んだもの、一緒に大根やさつま揚げも煮込んで会って、見た目はカレーおでん。カキフライは大粒の牡蠣を薄めの衣でカラッと揚げてあってうまい。お店の方に、是非醤油で食べてと言われて、レモンを絞ってチョロッと醤油をたらして食べてみる。うまい。

 

お店の見た目は地味ですが、地元に根付いたいいお店です。近所のサラリーマンがひっきりなしに入っていました。

岩波講座 日本歴史 第4巻

奈良時代から平安前期ごろまでの歴史。唐の威光にかげりがでてきて、政治制度や文化、宗教において唐を丸写しする時代から、少しづつ日本の独自性が出てくるころだ。

 

人や田の状況を把握するために戸籍や田籍を整備し、それに基づいて人々に口分田を与え、租庸調の税を徴収する。国によるこのような全国一律の土地支配制度は、最初はある程度維持されたものの、皇族、有力貴族や寺社が、屯倉や荘園などの私有地を拡大しようとする動きに骨抜きにされていく。国が地方に派遣する国司みずからが荘園拡大のお先棒を担ぐようになる。そして、10世紀ごろには口分田の供給も全く行われなくなる。

 

日本の王権は、大陸や朝鮮半島からの渡来人、国内の地方勢力など、各方面との妥協の上で維持されている印象がある。一方、中国大陸は、徹底的な闘争の果てに権力を掌握した皇帝が、国全体を強力に支配するイメージが。そんな唐の均田法をまるごと取り入れても、なかなかうまくいかないのかもしれない。

 

北陸にも東大寺領がたくさんあったようなので、荘園にテーマを絞って何か本を読んでみたい。

古代4 (岩波講座 日本歴史 第4巻)

さらば政治よ 旅の仲間へ

渡辺京二さんといえは、幕末から明治に日本を訪れた西洋人が書き残した旅行記などから、当時の日本の姿を再現した「逝きし世の面影」が印象に残る。そこには、封建制の抑圧に苦しみ貧しい悲惨な庶民の生活があるかと思いきや、掃除が行き届いた清潔な家、こぎれいな街並み、 いい体格をした、よく笑い人懐っこい農民や町人、元気で幸せそうな子供たち。まさに目から鱗の本です。

 

この本は、渡辺京二さんの新聞や雑誌への寄稿と読書日記、マイケル・ポランニーについての講義が収められている。

 

全体をざっくりとまとめると、政治向きのことに関してみんな素人なのにギャーギャー騒ぎすぎ。国家が大事なのはわかっているけれど、政治のことは専門家にお任せして、国とのかかわりは、税金を払ってその分のサービスを受ける程度の最小限にしたい。人口が減っても、経済大国でなくなっても、オリンピックでメダルがとれなくても、そんなことは、それぞれの生活の質にはたいした影響ないんじゃない? それよりも、普通の人はそれぞれの本分にそっていいものを作り、仲間と交流して質の高い生活を目指すべきじゃないか。 という内容。

 

ポランニーについての講義録は、ヨーロッパで極右勢力が台頭していることやアメリカ大統領選挙でトランプが当選したこととからめて読むと興味ぶかい。

 

ポランニーは市場経済というのは太古の昔からあったが、それは、対外貿易や臨時の市場など限られた場で、しかも社会から慎重に制御されたものだった。人々にとっては互酬、再分配、家政による経済活動が重要だったと言います。そして、18世紀以降これまでつづいてきた、市場経済自由主義経済の発展の過程は、互酬、再分配、家政を支えてきた、血縁・隣人・同業者組合・信仰といった非契約的な組織を解体しつづける過程だった、と。

 

また、ポランニーは、自由主義経済を社会進化の必然の到達点ではなく、何かのきっかけで市場が暴走してしまった突然変異のような社会であるとと位置付けます。当然そこでは、旧来の社会を支えてきた、血縁・隣人・同業者組合・信仰を守ろうとする反発、「社会防衛運動」が起こると言います。その「社会防衛運動」が、ラッダイト運動であったり、地主階層の反発だと。

 

最近のイスラム原理主義や極端な民族主義、トランプ大統領もそんな流れの一環なのかと思った。頭では市場経済が効率的でいいとはわかっていても、そんなものに全面的に身を任すわけにいかないという肌感覚というか予感が世の中にあるんだろう。だから、それらの動きは一時的なものでも、簡単に制御できるものでもない、人間の本性に基づいた根本的な動きだと覚悟しておいたほうがいいんだろう。

 

ところで、渡辺京二さんは、河合塾の福岡校で1981年から2006年まで25年間にわたって現代文を教えている。私は1984年に河合塾名駅校に通っていた。人気がある講師には、200人の教室が満員になって立ち見がでるくらい生徒が集まるけれど、つまらない講義はどんどん出席者が減っていく、あの厳しい予備校の世界で25年も講師やってるんだから、さぞかし面白い講義だったんだろう。

 

さらば、政治よ: 旅の仲間へ

 

benton.hatenablog.com

エルパソの焼菓子

 日曜の午後4時、東山まで歩く。春の観光シーズンなのか、茶屋街の通りは人があふれんばかりの賑わい。人が多すぎて列をついて歩いているような状態。

 

のんびり本でも読もうと、賑やかな通りから5分ほど歩いたところにあるエルパソという洋菓子屋さんに行く。ここは2階でお茶とお菓子を食べられるようになっている。1階のショーケースで、洋梨のタルトとコーヒーを注文して2階に上がる。渡辺京二の「さらば、政治よ 旅の仲間へ」を読む。この前来た時は、地元のグランドゴルフの仲間、10人くらいのおじいさん、おばあさんがいて大変賑やかだったが、今日は私以外にはお客さんはなく静かに過ごす。時々、1階にケーキを買いにお客さんが来る。

 

1時間くらい本を読んで帰ってきた。写真は、持ち帰って家で食べたお菓子。外側はサクサクのクッキー生地、中は柔らかいケーキ、上に乗っている赤い粒々は、ベリー系の何か、甘酸っぱい味がしました。

f:id:benton:20170312185107j:image