戦う操縦士

第2次大戦下にドイツ軍の動向を探りに偵察飛行に出かけた時の体験を基にしたサン・テグジュベリのお話。敗戦の混乱のなかで、普通の暮らしが壊れていく状況をみて、人は、他の人との関係をもつことによって人間としてなりたっている、「文明」と関係をもつことで人としての意味のある生活がなりたっている。のというようなことが書いてあります。

わたしの文明の説く「人間」は、個々の人間から出発しては定義されないものだからだ。個々の人間は、「人間」を通してはじめて定義される。「人間」のうちには、すべての「存在」におけると同様、その構成要素である素材からは説明されないものがある。大聖堂は石材の総和とはまさに別のものだ。

大聖堂を定義するのは石材でなく、逆に大聖堂のほうが、その固有の意味内容によって石材を豊かにしているのだ。

少々理屈っぽくて難しいですが、たまに姿勢を正してこんな本も読んでみたい気分になります。


敗走につぐ敗走で混乱している軍の状況について、面白い例えをしています。どこまで行ってもお役所仕事ということでしょうか。仕事柄非常に気に入ったので、少し長いですが引用しますと・・・。

こんなことはすべて馬鹿げている。なにひとつうまくいっていない。わたしたちの世界は、たがいに噛み合うことのなくなった歯車装置だ。原因は素材ではなく、時計師だ。時計師がいないのだ。

わたしたちは、行政機構のなにも見えぬ腹のなかで生きているのだ。行政機構もひとつの機械だ。行政機構が完全なものであればあるほど、人間の恣意は排除される。人間が歯車仕掛けの役割を演じる完全な行政機構のなかにおいては、怠惰や不誠実や不正はもはや幅をきかす機械を持たない。
 だが、機械が既定の一連の運動をおこなうようにつくられているのとおなじように、行政機構というものもまた、決して創造するということはない。それは管理するだけだ。これこれの過失に対してはこれこれの懲罰を、これこれの問題に対しては、これこれの解決を与えるだけだ。新しい問題を解決するために行政機構が考え出されるのではない。プレス機械のなかに木片を挿入したところで、けっして家具は出てこない。機械が適応するためにはある人間がそれを改良する権利を手にしていれば十分だ。ところが、人間の恣意の不都合を防止するために考え出された行政機構においては、歯車装置は人間の干渉を拒否する。彼らは時計師を拒否するのだ。

「フランスでは、すべてもうおしまいだと思われたとき、奇跡がフランスを救ってくれる。」わたしはその理由を理解した。災害が行政機構というみごとな機械を狂わせ、それが修復不可能であると確認されたとき、やむをえず、機械のかわりになまの人間を据えるということがときに起こったからだ。そして、人間がすべてを救ったのだ。

能登半島地震では、たくさんの「なまの人間」が、いろんな所で活躍しています。

戦う操縦士 (サン=テグジュペリ・コレクション)

戦う操縦士 (サン=テグジュペリ・コレクション)