歴史家の自画像 私の学問と読書

あとがきの日付が2006年8月11日。阿部謹也さんが亡くなられたのが9月4日なので、最後の著書ではないかと思い読んでみました。


阿部謹也さんが「ハーメルンの笛吹き男」の研究を始めたきっかけは、古文書館でハーメルンの近所のまちの水車小屋にネズミ捕り男の伝承があったことを発見したことだと語ってます。その中で、

しかし、そのときには、非常に面白かった。これば面白そうだと思った。正直に言いますと、そのときに非常に興奮したんです。面白そうだ。やりたい。そのことを周辺にいた僕の友人たちにしゃべったんです。そうしたらみんな、しらけた顔をして、そういうことをやっても学問的業績にならないからやめたほうがいいよって言うんです。僕は彼らが何を言っているのか分からなかった。面白いんだから、これをやりたい。

とあります。私も、「面白いんだから、これをやりたい。」といえる仕事がしたいものです。


「故郷」という文章のなかで、12世紀のフーゴーという人が書いた「学習論」から引用された文章が印象に残りました。

故郷が甘美だと思う者はまだ脆弱な者に過ぎない。何処に行っても故郷と同じだと思う者はすでに力強い人である。しかし全世界が流謫の地であると思う人は完全な人である。第一の人は世界に愛を固定したのであり、第二の人は世界に愛を分散させたのであり、第三の人は世界への愛を消し去ったのである。

何処に行っても、半年暮らせば自分のなわばりだと感じられるので、私は第2の人だと思います。第三の人の意味がよくわからないのですが、阿部さんは次のように解釈されています。

これまで私たちは肉体を中心として生きてきた。その肉体をはぐくんでくれた故郷への思いも吐露してきた。しかしこれからは肉体を離れて自分のそして仲間の生き方を考えることになるだろう。
 それは新しい「世間」の構想にほかならない。これまで「世間」は肉体の欲望を中心として理解されてきた。幸いなことに誰でも「世間」を離れる機会が1回だけ与えられている。出「世間」である。新しい「世間」。それば私たちの真の故郷とならなければならない。

第3の人とは、「何処に行っても、自分を守ってくれる「故郷」「世間」はない。この世で独りきりだ。」と覚悟を決めた人のことなのでしょうか。