ある明治人の記録

この手記を残した、柴五郎は明治33年の北清事変のとき北京駐在の武官として冷静に行動し、世界の賞賛を得た軍人。会津藩士の子であり、戊辰戦争会津落城の際に祖母、母、姉妹が自刃している。その後会津藩下北半島へ移転し斗南藩となったときに、父兄とともに下北半島で2年間、餓死寸前の極貧生活を送っている。


石光真清の手記を読んでいたときに、本屋の新書コーナーで背表紙の「石光真人編著」の文字が目に留まって買ってきた。石光真人は真清の長男で父の手記を「城下の人」等として出版した編集者。柴五郎は若いころ真清の叔父の野田豁通に寄食していたこともあり、真清とも終生親しくしていたそうだ。


薩長に敵視され理不尽な扱いを受けた会津藩士が、どれほど恨みをつのらせていたか。雪辱を果たすため西南戦争薩軍征伐に参加しときの心境を次のように語っている。

真偽未だ確かならざれども、芋(薩摩)征伐仰せ出されたりと聞く、めでたし、めでたし

今日薩人に一矢を放たざれば、地下にたいし面目なしと考え、いよいよ本日西征軍に従うため出発する。


教科書からは見えてこない歴史がここにあります。

ある明治人の記録―会津人柴五郎の遺書 (中公新書 (252))

ある明治人の記録―会津人柴五郎の遺書 (中公新書 (252))