白山奥山人の民俗誌

 石川県白山市の旧白峰村で、「出作り」とよばれる生活を行っていた人たち(=奥山人)の、江戸時代から昭和40年代までの生業や習俗を網羅的にまとめた本です。

 

出作りというのは、白峰村の本村から離れた山林の奥地、高地で住居を構えて焼き畑による稗や粟を栽培しながら生活すること。農繁期にだけ出作り生活をし冬は本村にもどる季節出作りと、年間を通して山林で孤立して生活する定着出作りとがあります。

 

この本は、著者が昭和40年代には既になくなりつつあった「出作り」の様子を、経験者に聞き取りし、その内容を、どうやって稼いでいたか、生活様式はどうだったのか、どんな道具をつかっていたのかなど民俗誌として網羅的にまとめたものです。

 

600ページもあるので最後まで読めるかと心配しましたが、知らなかったことがつぎつぎと出てきて退屈することなく読了しました。

 

印象に残ったのは次の3点。

・多種多様な生業

 紹介されている主な生業は、焼き畑で雑穀栽培、養蚕、炭焼き、わさび栽培、鉱山経営、熊猟、サクラマスイワナ漁、薬草採取と加工、木製品作り(鋤鍬の柄、大名用の籠の担ぎ棒、笠木、松明、雪かき板など)、登山者の案内、登山者用のお土産づくり(ライチョウの羽など)歩荷、砂防工事の土木作業などなど。

 

 これらの多様な生業を組み合わせて現金収入を得て、白峰村では栽培できなかった米を購入していたそうです。それぞれの生業の収入でどのくらいの米が購入できたのかを、文献を基に提示してありおもしろい。熊の胆や薬草のオウギ採りが割のいい稼ぎだったようです。

 

 生業の移り変わりが頻繁にあることが意外でした。養蚕で稼げたのは明治から昭和の初めにかけてで、ピークは明治の終わり頃です。その後は炭焼きが盛んになりますが、昭和30年ごろには石炭、石油が使われるようになり廃れます。

 

 また、江戸時代は白山の頂上、大汝峰には阿弥陀仏が祀ってあり、そこに至る道にもそこここに、お地蔵様などがあったそうです。登山者が置いて行くお賽銭は案内人の収入になったほか、案内人はライチョウ羽を加工してお土産品として売ったり、登山に必要な金剛杖や松明も売って収入にしていたそうです。しかし、明治の廃仏毀釈で仏像が全て山からおろされ、その後に白山姫神社がでました。浄土真宗の信仰が厚い地域なので、江戸時代は多くの巡礼登山があったが、明治以降は信仰がらみの登山者はめっきり減り、案内人としての稼ぎは少なくなったとのことです。

 

・県境を越えた広い行動範囲

尾口村では、檜を薄くテープ状に剥いだものを編んで笠を作っていたのですが、その原料となる檜を山から切り出して笠木として出荷していたのは白峰の奥山人です。自然に生えている樹木を伐採していたため、江戸時代には白峰周辺では伐り尽くしてしまい、奥山人は県境の分水嶺を越え、福井県九頭竜川水系岐阜県庄川水系の源流地帯で檜を盗伐していたそうです。福井県側、岐阜県側の住人に比べて白峰奥山人の山岳地帯での行動力はずば抜けていたこともあって、熊狩り、イワナ漁なども県境に関係なく広範囲で活動していたようです。

 

自分の経験に照らし合わせて、昭和40年代に私の祖父母が現役で働いていたころまでは、確かに、稲藁で農作業につかうテゴを編んだり、山でコケ(きのこ)やゼンマイをとって保存したり、海では地引き網で穫れた魚を参加者に平等に配ったりということが、普段の生活に根付いていたなと、懐かしい気持ちになりました。

 

その当時は当たり前のことも時が経つと忘れ去られてしまう。そんな普通の生活の記憶を長い時間をかけてまとめた貴重な本です。

白山奥山人の民俗誌:忘れられた人々の記録

白山奥山人の民俗誌:忘れられた人々の記録