イデーン Ⅰ−Ⅰ

三宅陽一郎さんの「人工知能のための哲学塾」の中に、人工知能とは何をしようとしているのか考える手がかりとして、フッサール現象学が登場する。それを読んで現象学に興味を持ち、田口茂さんの「現象学という思考」を読んだら、現象学というのはデカルトの「我思う、故に我あり」をもっと徹底させた考え方で、学問の根本をその存在を疑いようもない自分の意識、自我にまで遡り、そこから積み上げていこうとするものだということがわかった。それでい、もっと詳しく知りたくなり、フッサールの代表的な著書「イデーン」をかじってみることにした。

 

フッサールは世の中に出回っている哲学や物理学の諸学問の言っていることはひとまず横に置いておいて、自明で疑いようもない基盤から独自に学問を組み立てようとする。その基盤となるのは、自我、意識。事物は自我や意識との相関することによって存在するのである。自我や意識によって経験されることで事物は存在すると言います。

それ自体において存在する何らかの対象とは、意識および意識自我がそれに寸毫の関わりも持たないような対象のことなのでは決してないのである。事物とは、環境世界の中の事物ということである。見たことのないような事物も、環境世界の中の事物なのであり、さらに、実際にありうるはずでありながら経験したことがなく、経験されうる可能性のあるだけの、ないしはひょっとしたら経験されうるかもしれないといった可能性のあるだけの事物もまた、環境世界の中の事物なのである。経験されうる可能性があるということは空虚な論理的可能性のことでは決してなくて、経験連関のうちに動機づけられた可能性のことである。

 

事物が実在してそこから意識が生まれたのでなく、まず最初に意識があり、その意識が身体も含めて意識を取り囲む世界を経験することによって事物が存在するのだということらしい。

 

物理学の法則に従ってビッグバンから物質が生まれて、そこから色々あって生命が誕生して、生命が進化して意識が生まれたという、私にとってごく普通の考えとは正反対だ。自分にとって疑いようののない意識が先だ。

 

とりあえず、一通り読んだが3割も理解できただろうか。 この本は、1/3以上がフッサール自身が出版後に書き込んだ注や付録、訳者の注なのだが、次はこれらにじっくりとあたりながら読んでみたい。

 

イデーン―純粋現象学と現象学的哲学のための諸構想 (1-1)