蟹の横歩き ヴィルヘルム・グストロフ号事件

 1945年1月30日の夜、東プロイセンのゴーテンハーフェン(現在のポーランド、グディニャの港から、ヴィルヘルム・グストロフ号が出航する。船にはソ連軍に追われるドイツの避難民がすし詰め状態で乗船していた。乗船者数の確かな記録はないが1万人を超えていたと言われる。港を出てしばらくしたところで、グストロフ号はソ連の潜水艦から発射された魚雷を3発受けて沈没。死者は9,000人以上、史上最大の海難事故となった。

 

あのタイタニック号沈没での死者は2,000人。それよりはるかに多くの人が亡くなったにも関わらず、グストロフ号沈没については戦後、西ドイツ、東ドイツどちらにおいても詳しく語られることはなかった。まずは、ナチス戦争犯罪を総括し謝罪することが優先され、ドイツ人自身が受けた戦争被害を詳細に語りにくい雰囲気があったことや、東ドイツでは、盟主であるソ連を慮らなければならなかったのだ。

 

この本は、ドイツのノーベル賞作家ギュンター・グラスによる、ヴィルヘルム・グストロフ号事件を題材とした小説。グストロフ号に乗船していた母親、その母親が沈没した夜にグストロフ号で産んだ息子、戦後生まれの孫。この親子3代を軸に話が進む。

 

ドイツ人としてナチス戦争犯罪の責めを負うべき立場である、と同時に戦争により生活基盤を根こそぎ失った被害者であることに対する微妙な時代の雰囲気が、戦争を直接経験した世代、とにかくナチス戦争犯罪への反省が第一だとされた世代、ドイツ人の被害にも目を向けるべきという雰囲気も出てくると同時に、極右も台頭し始める90年代以降の世代の絡み合いの中で表現されている。

 

ドイツとロシアという二つの大国に挟まれ、領土を巡ってまさに血で血を洗う凄惨な戦いの場所となった、ポーランドバルト三国の歴史を知るため入り口として読んでおくべき本。