瀬戸酒店経由の黒百合
土曜日の午後、陽気につられて散歩に出かける。
武蔵ヶ辻、香林坊、片町と歩いて、犀川大橋を渡り蛤坂を登る。妙立寺の前を通って、六斗の広見から旧鶴来街道を歩く。途中で以前から気になっていた、瀬戸酒店さんに立ち寄る。何が気になったかというと店の入り口にある「樽生250円」の看板だ。お店に入り「樽生お願いします。」とご主人に話すと、慣れた手つきでプラスチックの透明なカップを取り出して、生ビールを注いでくれた。250円を支払い店先のベンチに座って飲む。1時間歩き続けた体に、よく冷えたビールがしみる。うまい。
3口ほどで飲み干して、泉中学校、小学校方面に向かう。157号を再び片町に引き返し、中央通りを歩いて元車、三社、金沢駅へと歩いた。
駅のお店も再開したというので様子を見に言った。お土産物屋さんは営業しているものの人はまばら、飲食も半分くらいのお店がまだ閉まっている。そんな中、おでんの「黒百合」がやっていたので様子をのぞいて見る。カウンターには、隣の席との間にプラスチックのパーテーションがおいてある。ブックスタンドとプラスチック板で作ったもので、お客さんの人数に合わせて移動できるようになっていた。私はひとりなので、両脇にパーテションがある中で、牛すじ煮込みで萬歳楽の穂の香を飲む。さすがにまだ観光客はおらず、地元の常連客ばかりでのんびりした雰囲気。北陸新幹線開業前の長閑な昼下がりに戻ったようだ。
道徳感情論
4年ほど前に購入して、何度も読み進めようとしたものの、毎回、100ページを過ぎたあたりで挫折しほったらかしになっていた。今回は不思議と調子よく読み進められた。
みんなが自分の利益のことだけを考えて商売をすることが、結果として社会全体に必要な物を行き渡らす事になる、いわゆる「神の見えざる手」を唱え、近代経済学の祖と言われるアダム・スミス。彼は「国富論」を書く前に、徳とは何か、社会の規範や道徳はどこから、どのように発生したのかについて、この「道徳感情論」で考察している。合理的な経済人を想定する近代経済学の基礎には、社会がどうあるべきかについての倫理的な基礎があったことを自分で確認したい一心で、ようやく最後まで読むことができた。
ある行為が望ましいことか、そうでないのか。道徳的に正しいのか正しくないのか。そのような判断の基盤に、他人の考えをその通りだと思う、「共感」があるという。共感とは、他人にとっての良い出来事を共に嬉しく思うこと、あるいは、他人にとって悪い出来事を共に悲しく思うことだ。同じように感じることなのだが、自分だったらこのくらい喜ぶだろうなと感じるよりも、甚だしくかけ離れて、他人が喜んでいるのを見ると、共感できない。喜ぶにしろ、悲しむにしろ適度な程度というものがあるだろうという。これを「適合」という。
どんな態度が適合的であるかについては、法律のような基準があるわけでなく、状況次第だという。この適合性から、道徳や義務、規則などが生まれているのだというのが、アダム・スミスの考え。
スミスは、自己の利益を確保しようと行動するのは、社会全体の規範に適合する限りにおいて問題ない、当然のことだという。また、適合的であろうとする意思が重要なのであって、適合しようと行動した結果が不本意なものに終わったとしても、それはその人に責任ではない。結果は仕方ない。個人の行動が失敗することも含めて、神は世の中全体がうまくいくように差配しているのだから気にするなという。
この辺は、「神の見えざる手」に繋がっていく取っかかりかもしれない。
とりあえず一通り目を通したけれど、スミスの言ってることが断片的にしか引っかかってこない。全体の流れをちゃんと理解するに、もう一度じっくり読み返さなきゃ。
コロナショック・サバイバル 日本経済復興計画
ラディカル・マーケット 脱・私有財産の世紀
遊穂
この前の日曜日に彦三の酒屋「カガヤ」さんへ連休中に飲むお酒を買いに行ってきた。いつもなら4合瓶で買うのだが、しばらく家に篭ることだしと、買い物の回数を減らさなきゃいけないしと言い訳して一升瓶で買った。買ったのは羽咋市の御祖(みおや)酒造の「遊穂」の純米酒。
料理に寄り添うお酒を目指すとホームページで言っているように、晩御飯を食べながらいっぱい飲むにはちょうどいい。気を張らず、気にせずに毎日飲める。冷やでも燗酒でも合う。そんなに高い酒でないけれどしっかりした味で飲み飽きない。
石川県内の酒蔵が一同に集まってお酒と料理を楽しむサケマルシェというイベントが毎年秋にある。何年か前のサケマルシェがえらく寒い日で、燗酒が飲みたくて、たまたま立ち寄った御祖酒造のブースでこの遊歩の燗酒を飲んで以来好きになった。
建築の東京
鳴和の滝
コロナウイルスが騒動になって以来、ランニングは控えている。人とすれ違うときに、走りながらウイルスを撒き散らしているような気分になるからだ。ただ、体は動かしたいので、休みの日は1時間は歩くようにしている。今日は東山から鳴和にかけて歩いた。
まずは、小橋から東茶屋街へ歩く。散歩している人が多い。向こうから歩いてくる男女の二人連れの男性がこちらをじっと見ている。私がマスクをつけ忘れたから睨まれているのかと思っていたら、マスクを外して挨拶をされた。仕事でお世話になっている社長さんだった。曖昧にこんにちはと挨拶する。にこやかに5分くらい世間話でもすればいいものを、慌ててどうもどうもと頭を下げながらすれ違う。知り合いとの突然の邂逅というのは、何を話せばいいのか咄嗟に思いつかないので、何がない会話を交わす難易度が高い。
観音町を通り抜けて、宇多須神社前から東山2丁目へ歩く。ここは洋菓子のエルパソがある通り。
高台にある蓮生寺から街を望む。卯辰山の裾野に広がる東山2丁目から山の上にかけては、急斜面にお寺や民家が密集し、その間に車が入れない細い路地が張り巡らされている。
車の通りも少なく高低差があり景色の変化に富んでいるので、散歩すると楽しい場所。ここは、とあるお寺の山門。
長屋。左側の2軒は窓枠が木製。きれいに住まわれている。
山の上の路地裏。トタンの錆び具合が素敵。
山の上の交差点近くから旧北国街道を歩いていると、「石川縣十名所義經旧蹟鳴和瀧」石碑を発見。義経ゆかりの滝、しかも石川県の名所ベスト10にも入っている有名な滝なら一度見ておかないと、と脇道にそれて滝を目指す。山に向かってダラダラと坂道を登こと5分くらい。神社の脇に鳴和滝を説明する石碑があった。
義経、弁慶の一行が安宅の関を通ったあと、もうここまでくれば大丈夫だろうと休憩、酒宴をした場所らしい。歌舞伎の勧進帳では、弁慶が「これなる山水の、落ちて巌に響くこそ、鳴るは瀧の水。」と詠む。鳴和という地名の由来ともなった滝があることすら知らなかった。滝自体は往時の面影はなく、細い樋からチョロチョロと打たせ湯のように流れ落ちるだけだった。
鳴和の交差点から城北通りを通って帰宅。所要時間1時間30分。
いなさ でボトルワインの持ち帰り
今週、栃木県日光のお肉屋さんからサラミの両端の切れ端を買った。500グラムで700円と随分安かったので生ハムの切れ端と一緒にネットで買ったのだ。サラミをつまみにワインを飲もうと、仕事帰りに酒屋に立ち寄ろうと自転車を走らせていたところ、もしかしたら、別院通りの「いなさ」でテイクアウトやってるかもと思いつきお店に行ってみたら、表に「テイクアウトやってます。つまみとボトルワイン。」と張り紙があった。お店に入るとご主人がカウンターの向こう側で仕込みをやっている。何か赤ワインをとお願いして選んでもらう。いつも飲んでいるような軽い感じのならコレかな。と勧められたのがコレ。
昔ながらの手法で丁寧に仕込んだビオワインとのことで、栓を開けたらその日のうちに飲みきったほうがいいとアドバイスされた。
家に帰りサラミの切れ端をスライスしてワインを飲んでみる。確かに軽め、でもしみじみとうまい。サラミは切れ端なので筋ばっている、でもうまい。
ぐいぐいと飲んだ。アドバイスされたとおりその日のうちにボトルを空けてしまった。
そして、みんなバカになった
橋本治が好きかどうかと聞かれると、ものすごく好きという訳ではない。なんでも根っこからひっくり返して考え始めるし、思いもかけない細かいところにこだわるので、いちいち説明が面倒くさいのだ。でも、1年に1度くらい、無性に読みたくなる。特に、これからどうしよう、とか、このままでいいんだろうかなどと、迷っている時に、橋本治は最近どんなことを言っているのだろうと、読んでみたくなるのだ。
宿無し弘文 スティーブ・ジョブズの禅僧
うちで踊ろう
先週の土曜日、1階の部屋で本を読んでいると、娘がピアノ弾きながら歌の練習を始めた。娘は高校の合唱部に所属している。今回の新型コロナウイルスのせいで、3月の上旬から部員が集合しての練習はほぼできていない。家で腹筋などのトレーニングや発声練習など、ひとりでもできることをやっている。
だから、またいつもの練習か、1時間もすれば終わるだろうと思い気にもしていなかった。ところが、2時間経っても終わらない。昼ごはんを食べた後も妻にピアノ引かせて音程を取りながら練習を続ける。私は、何時間も同じフレーズを聞かされていい加減ウンザリしてくる。娘が歌うアルトのパートは、主旋律でもないので、何を歌ってるかもよくわからず、しかも下手くそなので音程が安定しない。イライラしてきたので家庭の平和維持のためには、しばらく家を出た方が良さそうと判断して、卯辰山方面に散歩に出かけた。
夕方に帰ってきてもまだ練習している。話を聞くと、6人がそれぞれ家で歌っている姿を動画に撮って部長に送り、部長さんが編集して合唱にするらしい。夕方までに動画を送ることになっていたのだけれど、仕上がらないので待ってもらっていると言う。娘も焦っているようで、涙目でもう諦めようかと言い始める。どうせ編集するなら、音程とか尺も調整できるのだから、今の状態で送ったら。と無責任なことを言うと、もう少し頑張ってみると意地をはる。
結局、夜の10時過ぎにようやく、納得のいくものを送ったようだ。で、翌日にアップされていたのが、これ。
現在休校中である私たちにも何かできないか...と考え、星野源さんの「うちで踊ろう」の合唱版を歌わせていただきました!竹内一樹さん編曲の混声四部合唱の譜面を使わせていただきました🙇♂️とても素晴らしい譜面です✨自粛疲れの癒しにぜひ🎶#星野源#うちで踊ろう#stayhome #二水高校合唱部 pic.twitter.com/2O1vzshoFK
— 金沢二水高校合唱部🎶 (@j9UuzNKgZx2x2dY) 2020年4月19日
再生回数が1週間で7万回を超えていて驚いた。
迷うことについて
「隔たりの青」というタイトルのエッセイと、彼女の家族や恋人、友人のことをふりかえるエッセイとが交互につづられる。東欧から祖母がアメリカへ移民したあとの波乱の人生、ネバダの砂漠の一隅に引きこもる恋人を訪ねたこと、友人が自殺したことなど。
衝撃的な事件もある。人が生きていれば、誰にでもあるだろうなと思う出来事もある。それぞれ、何が起こったのかはもちろん、そこに至るまでの経過、本人との関係の変化が伝わる。表現がうまい。例えがうまい。ありありと伝わる。
全編に通底するテーマは表題の「迷うことについて」。道に迷う、人生に迷う。著者は、人は迷うことを恐れすぎではないかと言う。迷う=自分を失うことは、世の中の常識や制度、地図で把握できる部分からはみ出して、むき出しの世界と直接対峙すること。自分を全てさらけ出して、状況に任せる。迷っていることを自覚して、迷うことに慣れるべきだと言う。
突然だが、私の妻は迷うことが得意だ。出かける時は行き先の詳しい状況は調べないし、どうやっていったらいいかも適当なままとりあえず出かける。スケジュールも適当でいった先で面白いものを見つければ、気がすむまでそこで時間を過ごす。一方私は、どんなところか調べて、行き帰りの交通手段と所要時間を調べて、スケジュールまできっちり想定しておかないと安心できない。最初は、妻のあまりの適当さ加減に呆れて、イライラしていたが、ある時から、これはこれでいいと思えるようになった。道に迷ったら素直に人に聞けばいいだけの話だし、予定の時間を過ぎても、面白いと思った場所で、心ゆくまで楽しんだ方が実り多い。それで、帰りの電車に乗れなくても、大した問題ではない。そう思えるようになるのに20年かかったけどね。
なぜだろう、女性のエッセイは切れ味が鋭い。須賀敦子さんを初めて読んだ時のような衝撃。説教臭くないのがいいのかもしれない。自分が体験したことを足場に、感じたことを感じたままに語るのがいい。