瀬戸酒店経由の黒百合

土曜日の午後、陽気につられて散歩に出かける。

 

武蔵ヶ辻、香林坊、片町と歩いて、犀川大橋を渡り蛤坂を登る。妙立寺の前を通って、六斗の広見から旧鶴来街道を歩く。途中で以前から気になっていた、瀬戸酒店さんに立ち寄る。何が気になったかというと店の入り口にある「樽生250円」の看板だ。お店に入り「樽生お願いします。」とご主人に話すと、慣れた手つきでプラスチックの透明なカップを取り出して、生ビールを注いでくれた。250円を支払い店先のベンチに座って飲む。1時間歩き続けた体に、よく冷えたビールがしみる。うまい。

 

3口ほどで飲み干して、泉中学校、小学校方面に向かう。157号を再び片町に引き返し、中央通りを歩いて元車、三社、金沢駅へと歩いた。

 

駅のお店も再開したというので様子を見に言った。お土産物屋さんは営業しているものの人はまばら、飲食も半分くらいのお店がまだ閉まっている。そんな中、おでんの「黒百合」がやっていたので様子をのぞいて見る。カウンターには、隣の席との間にプラスチックのパーテーションがおいてある。ブックスタンドとプラスチック板で作ったもので、お客さんの人数に合わせて移動できるようになっていた。私はひとりなので、両脇にパーテションがある中で、牛すじ煮込みで萬歳楽の穂の香を飲む。さすがにまだ観光客はおらず、地元の常連客ばかりでのんびりした雰囲気。北陸新幹線開業前の長閑な昼下がりに戻ったようだ。

 

 

道徳感情論

 4年ほど前に購入して、何度も読み進めようとしたものの、毎回、100ページを過ぎたあたりで挫折しほったらかしになっていた。今回は不思議と調子よく読み進められた。

 

みんなが自分の利益のことだけを考えて商売をすることが、結果として社会全体に必要な物を行き渡らす事になる、いわゆる「神の見えざる手」を唱え、近代経済学の祖と言われるアダム・スミス。彼は「国富論」を書く前に、徳とは何か、社会の規範や道徳はどこから、どのように発生したのかについて、この「道徳感情論」で考察している。合理的な経済人を想定する近代経済学の基礎には、社会がどうあるべきかについての倫理的な基礎があったことを自分で確認したい一心で、ようやく最後まで読むことができた。

 

ある行為が望ましいことか、そうでないのか。道徳的に正しいのか正しくないのか。そのような判断の基盤に、他人の考えをその通りだと思う、「共感」があるという。共感とは、他人にとっての良い出来事を共に嬉しく思うこと、あるいは、他人にとって悪い出来事を共に悲しく思うことだ。同じように感じることなのだが、自分だったらこのくらい喜ぶだろうなと感じるよりも、甚だしくかけ離れて、他人が喜んでいるのを見ると、共感できない。喜ぶにしろ、悲しむにしろ適度な程度というものがあるだろうという。これを「適合」という。

 

どんな態度が適合的であるかについては、法律のような基準があるわけでなく、状況次第だという。この適合性から、道徳や義務、規則などが生まれているのだというのが、アダム・スミスの考え。

 

スミスは、自己の利益を確保しようと行動するのは、社会全体の規範に適合する限りにおいて問題ない、当然のことだという。また、適合的であろうとする意思が重要なのであって、適合しようと行動した結果が不本意なものに終わったとしても、それはその人に責任ではない。結果は仕方ない。個人の行動が失敗することも含めて、神は世の中全体がうまくいくように差配しているのだから気にするなという。

 

この辺は、「神の見えざる手」に繋がっていく取っかかりかもしれない。

 

とりあえず一通り目を通したけれど、スミスの言ってることが断片的にしか引っかかってこない。全体の流れをちゃんと理解するに、もう一度じっくり読み返さなきゃ。

道徳感情論 (講談社学術文庫)

道徳感情論 (講談社学術文庫)

 

 

コロナショック・サバイバル 日本経済復興計画

 コロナショックで、まず、飲食、ホテル・旅館、観光業の売上が一瞬にしてなくなり、ローカルビジネスが大打撃を受ける。それにより、耐久消費財の需要が大幅に落ち込み、自動車、家電などのグローバルビジネスも危機的状況に陥る。そこから、金融危機になり、ローカルビジネスに悪影響が・・・・。というお話。 1章だけ読むといいと思います。以上。

コロナショック・サバイバル 日本経済復興計画

コロナショック・サバイバル 日本経済復興計画

  • 作者:冨山 和彦
  • 発売日: 2020/05/09
  • メディア: 単行本
 

 

ラディカル・マーケット 脱・私有財産の世紀

新自由主義経済学は、格差と引き換えに経済成長が進むことを約束していたが、現在は、成長率の減速と格差の拡大が同時に進行する状況にある。これを著者は「スタグネクオリティ」と呼び、現在の市場経済が解決すべき問題と位置付ける。
 
著者は「スタグネクオリティ」を解決のための5つの方策をあげる。現在の仕組みから見ると、野心的な方策で、まさにラディカル。
 
最初に説明されるのは、「共同所有自己申告税(comon ownership self-assessed tax=COST)」という仕組み。これは、自分が所有している土地・建物の評価額を自己申告し、それに一定の税率をかけた税金を支払う仕組み。評価額を低く設定すれば、支払わなければならない税金も安くなる。しかし、自己評価した金額で他の誰かが買いたいと手を挙げた場合には、所有者は自分が評価した金額で売却しなければならない。税金を安くしたいがために自宅の評価額を不当に下げると、誰かに自宅を売らなければならない事態になる。
 
この仕組みにどんなメリットがあるのか。土地・建物などの資産を一番有効に活用できる人が、使用する権利を取得することになるので、活用されていない資産が、有効に活用されることで、全体の経済成長が進むという。都市の再開発を進めれば全体が良くなるのはわかっているのに、一部の土地所有者が売却を拒むために話が進まない、というような事態を避けられるのだ。
 
著者の提案は、さらにラディカルに、COSTを人の所得税にまで拡張すべきだという。各人が自分の能力を評価して、それに見合う収入を申告するのだ。申告した収入に税率をかけた額を税金として支払わなければならない。また、自分が申告した収入で雇いたいという人がいれば、働かなければならない。これは能力がある人を目一杯働かせる仕組みだ。
 
資産や人の能力を、所有者が抱え込んで死蔵することがないようにする仕組み、社会で共有して有効に活用しようという仕組みだ。
 
家の評価を低くしすぎて、持ち家を追い出されたり、給料の評価を安くして、働きたくもない会社で働くことになったりと、あまり幸せになれないような気もするが、既得権益者だけがおいしい思いをして格差が拡大して、どん詰まりになっていることを考えると、こんな手もありなのかと思う。
 
他にも、選挙ごとに一票を与えるのでなく、複数票を与えて、どの選挙に投票するかについても選べる仕組みや、個人が移民の身元引き受け人になれる制度など、実現できるのかどうかはともかく、どれもラディカルに資本主義を改革する制度。面白い。
 
資本主義は自由放任で放っておけば全てうまくいく訳でなく、制度を維持していくためには、慎重に管理していかないとうまく機能しないというのは、「セイヴィング キャピタリズム」と通じるお話。

遊穂

この前の日曜日に彦三の酒屋「カガヤ」さんへ連休中に飲むお酒を買いに行ってきた。いつもなら4合瓶で買うのだが、しばらく家に篭ることだしと、買い物の回数を減らさなきゃいけないしと言い訳して一升瓶で買った。買ったのは羽咋市の御祖(みおや)酒造の「遊穂」の純米酒

料理に寄り添うお酒を目指すとホームページで言っているように、晩御飯を食べながらいっぱい飲むにはちょうどいい。気を張らず、気にせずに毎日飲める。冷やでも燗酒でも合う。そんなに高い酒でないけれどしっかりした味で飲み飽きない。

 

石川県内の酒蔵が一同に集まってお酒と料理を楽しむサケマルシェというイベントが毎年秋にある。何年か前のサケマルシェがえらく寒い日で、燗酒が飲みたくて、たまたま立ち寄った御祖酒造のブースでこの遊歩の燗酒を飲んで以来好きになった。

 

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金沢駅の西側へ散歩

抜けるような青空に誘われて散歩に出かける。この連休中に卯辰山界隈には何度も出かけているので、今日は金沢駅の西側へ向かう。

 

瓢箪町から別院通りを経由して金沢駅へ。もてなしドームとコンコースには本当に数えるほどしか人が歩いていない。人の途切れる瞬間を見はからって無人金沢駅ふうの写真を撮る。 

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最高気温が25度まで上がるらしく、午前中だというのに暑いくらい。日差しがきつい。空の青、若葉の緑、紅白のアンテナ、鮮やかな色が目にしみる。

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県庁まで往復歩いて、歩行時間2時間30分。

 

 

建築の東京

出張で東京に行くと、東京駅周辺の変貌ぶりに驚く。特に丸の内側には超高層ビルが林立し、東京駅を見下ろす壁のようになっている。湾岸ではタワーマンションも次々と建設された。私が東京に住んでいた1990年代の印象とは全然違う。鉄道の新路線が開通し、都心へのアクセスが良くなったからなのか、東京、特に都心への職、住の機能の集中が進んでいる。
 
この本は、バブル崩壊後の30年の東京における建築の状況を振り返る。著者の言いたいことは、本文の最後の一節に尽きると思う。
 
なるほど日本の地方都市はまだ危機感ゆえか実験的な建築がつくられているが、東京は経済原理が優先し、思いきった冒険的なプロジェクトがない。同じ2010年代に話題になったのは、日本らしさを金科玉条とし、東京駅の復元や日本橋の上の首都高の地下化など過去を美化する後ろ向きの計画だった。そして日本の地方都市は、おきまりの店舗を並べる商業施設を作ることで「東京」のまねをしないほうがいいと思う。だが、今の東京はまるで「東京」を模倣する地方都市の拡大版のような状態に陥っているのではないか。
 
1964年のオリンピックの時には、代々木の屋内競技場など当時の若手の建築家が設計した、後世に残るような優れた建築が生まれた。バブルの時には、それこそ金に糸目をかけず世界の最先端を行く個性的な建築が建てられた。今はどうだろう。経済優先で効率性ばかりを求めた平板なオフィスビルや、日本の良さを表現すると称して安易に過去を手本とし、世間から後ろ指を指されないことを至上命題としこじんまりまとまった公共建築がはびこっている。という。
 
その通り。ただ、一方ではこうも思う。べらぼうに高い東京に建物建てるのだから、経済優先になるのは当然のこと。役所も財政状況が悪化し、公務員への信頼が地に落ちてしまっては、昔のように世間に一歩も二歩も先んじたプランを採用するのも難しい。世論も一筋縄ではいかない。できるだけ炎上しないようにしなければ、話が先に進まないだろう。
 
「だから、建築がつまらなくなっても仕方ないじゃん。」と思う。しかし、建築の可能性は経済だけではない、長期間にわたって、地元で使われて、街のイメージを一変させることもある。そのことは、金沢21世紀美術館で人の流れが大きく変わった金沢の住民として体験したこと。
 
公共建築は、短期的なコストや効率だけでなく、長い目で見た効果も織り込んで計画すべきなのだろう。そのためには、行政側は計画の段階から情報を公開し合意形成に時間をかけていくことが大事になる。昔だったら政府にお任せで好きにやれたかもしれないが、今なら時間をかけて議論するしかない。
 
そういう意味では、著者が丁寧に言及している、ザハ・ハディッドが設計した新国立競技場案が取りやめになったことについては、費用がかかりすぎるとか、周辺の景観にマッチしないとか色々批判されたけれど、根本は東京オリンピックを招致したこと自体が筋悪だったからだろう。それなりの大義名分もなく、議論も尽くさず、経済効果ばかりをうたって招致したことが、その後のゴタゴタの原因。
 
公共建築に関しては、計画の規模が大きくなればなるほど、今後は住民の合意形成に時間をかけていくことになる。これは行政の仕事のやり方全体を変えていくことになる。意思決定が遅くなり面倒だけれど、必要なことだし時間をかけるべきだと思う。
 
建築の東京

建築の東京

 

 

鳴和の滝

コロナウイルスが騒動になって以来、ランニングは控えている。人とすれ違うときに、走りながらウイルスを撒き散らしているような気分になるからだ。ただ、体は動かしたいので、休みの日は1時間は歩くようにしている。今日は東山から鳴和にかけて歩いた。

 

まずは、小橋から東茶屋街へ歩く。散歩している人が多い。向こうから歩いてくる男女の二人連れの男性がこちらをじっと見ている。私がマスクをつけ忘れたから睨まれているのかと思っていたら、マスクを外して挨拶をされた。仕事でお世話になっている社長さんだった。曖昧にこんにちはと挨拶する。にこやかに5分くらい世間話でもすればいいものを、慌ててどうもどうもと頭を下げながらすれ違う。知り合いとの突然の邂逅というのは、何を話せばいいのか咄嗟に思いつかないので、何がない会話を交わす難易度が高い。

 

観音町を通り抜けて、宇多須神社前から東山2丁目へ歩く。ここは洋菓子のエルパソがある通り。 

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高台にある蓮生寺から街を望む。卯辰山の裾野に広がる東山2丁目から山の上にかけては、急斜面にお寺や民家が密集し、その間に車が入れない細い路地が張り巡らされている。

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車の通りも少なく高低差があり景色の変化に富んでいるので、散歩すると楽しい場所。ここは、とあるお寺の山門。

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長屋。左側の2軒は窓枠が木製。きれいに住まわれている。

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山の上の路地裏。トタンの錆び具合が素敵。

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山の上の交差点近くから旧北国街道を歩いていると、「石川縣十名所義經旧蹟鳴和瀧」石碑を発見。義経ゆかりの滝、しかも石川県の名所ベスト10にも入っている有名な滝なら一度見ておかないと、と脇道にそれて滝を目指す。山に向かってダラダラと坂道を登こと5分くらい。神社の脇に鳴和滝を説明する石碑があった。

 

義経、弁慶の一行が安宅の関を通ったあと、もうここまでくれば大丈夫だろうと休憩、酒宴をした場所らしい。歌舞伎の勧進帳では、弁慶が「これなる山水の、落ちて巌に響くこそ、鳴るは瀧の水。」と詠む。鳴和という地名の由来ともなった滝があることすら知らなかった。滝自体は往時の面影はなく、細い樋からチョロチョロと打たせ湯のように流れ落ちるだけだった。

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 鳴和の交差点から城北通りを通って帰宅。所要時間1時間30分。

いなさ でボトルワインの持ち帰り

今週、栃木県日光のお肉屋さんからサラミの両端の切れ端を買った。500グラムで700円と随分安かったので生ハムの切れ端と一緒にネットで買ったのだ。サラミをつまみにワインを飲もうと、仕事帰りに酒屋に立ち寄ろうと自転車を走らせていたところ、もしかしたら、別院通りの「いなさ」でテイクアウトやってるかもと思いつきお店に行ってみたら、表に「テイクアウトやってます。つまみとボトルワイン。」と張り紙があった。お店に入るとご主人がカウンターの向こう側で仕込みをやっている。何か赤ワインをとお願いして選んでもらう。いつも飲んでいるような軽い感じのならコレかな。と勧められたのがコレ。

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昔ながらの手法で丁寧に仕込んだビオワインとのことで、栓を開けたらその日のうちに飲みきったほうがいいとアドバイスされた。

 

家に帰りサラミの切れ端をスライスしてワインを飲んでみる。確かに軽め、でもしみじみとうまい。サラミは切れ端なので筋ばっている、でもうまい。

 

ぐいぐいと飲んだ。アドバイスされたとおりその日のうちにボトルを空けてしまった。

 

ベランダで朝飯

明るい日差し、青空、窓を開けても心地よい暖かさ。ベランダにキャンプ用の椅子とベッドを並べて朝ごはんを食べた。自宅待機の暇にまかせて、妻が昨日焼いたフォッカチャとリンゴだけの簡素な朝ごはんだけど、外で食べると気分がいい。妻と娘と私の3人で、2時間ほどのんびりとお日様にあたっていたら、少し気分も持ち直してきた。

 

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そして、みんなバカになった

 橋本治が好きかどうかと聞かれると、ものすごく好きという訳ではない。なんでも根っこからひっくり返して考え始めるし、思いもかけない細かいところにこだわるので、いちいち説明が面倒くさいのだ。でも、1年に1度くらい、無性に読みたくなる。特に、これからどうしよう、とか、このままでいいんだろうかなどと、迷っている時に、橋本治は最近どんなことを言っているのだろうと、読んでみたくなるのだ。

 
だから、昨年亡くなったと聞いた時には驚いた。頼りにしていた人がいなくなった。
 
この本の巻末に橋本治の年代別の著作リストがある。これを見ると私が小学校6年生、1978年に最初の著書「桃尻娘」が出版されている。当時本屋さんで平積みになっていた桃尻娘の表紙を見ていた記憶はある。でも、子供が読んではいけない本だと思って手に取ったことはない。あまり小説を読む習慣がなかったこともあり大学生になるまで、橋本治の本を読まなかった。初めて読んだのは、1985年出版の「親子の世紀末人生相談」だ。多分その時も何かに悩み、人生相談というタイトルに惹かれたのだと思う。
 
その後も、「ぼくたちの近代史」、「江戸にフランス革命を!」「貧乏は正しい!」、「ああでもなくこうでもなく」、「「わからない」という方法」、「上司は思いつきでものを言う」、「橋本治という考え方」などを読んだ。
 
読んでも、「なるほど、ようくわかった、スッキリ。」と感じることはなく、モヤモヤ感が残るのだが、後からじんわりとくるので癖になるのだ。
 
この本は、橋本治が2000年代に残したインタビューを集めたもの。第1章「どこまでみんなバカになるのか」では、70年代から日本人はバカになり始めて、2000年代には、バカの最終局面に入った、このままではバカばかりで人間が滅びてしまう。と言う。「バカになる」とは、ややこしいことがあっても、その場が楽しければいいとか、経済が発展していけばいいんだ、どう生きるべきかとか、社会全体をうまく回すにはどうすべきかなどと考えなくなったということ。
 
70年代に大学のレジャーランド化が進み、バブルの時代には、フリーターで食っていけるなら七面倒くさいこと考えなくてもいい、バブル崩壊後は、とにかく経済さえ復活すればと商売に逃げる。その結果が50代、60代になっても子供のまま。このままでは誰も社会を支える人がいなくなり、基本的な仕組みが朽ち果てて人間が滅びるよ。
 
70年代からのバカになっていく流れのど真ん中にいたのが、今年54歳になる私だ。下の世代と話していると、自分がいい加減、不真面目だと感じる。既存の制度に文句を言って、そんなもの無くしてしまえと廃止するけれど、それに代わる新たな仕組みを作り上げるわけでもない。
 
 
そして、みんなバカになった (河出新書)

そして、みんなバカになった (河出新書)

  • 作者:橋本治
  • 発売日: 2020/04/25
  • メディア: 新書
 

 

宿無し弘文 スティーブ・ジョブズの禅僧

スティーブ・ジョブズが禅に入れ込んでいたのは有名な話だ。アップル製品の無駄を削ぎ落としたシンプルなデザインは禅の考え方に通じるとも言われる。また、ある日本人のお坊さんを師匠のように慕い自宅に招いて様々なことを相談したり、1991年にヨセミテのアワニーホテルで結婚式を挙げた時にも、その人に式を取り仕切ってもらった逸話は、ウォルター・アイザックソンの本人公認の自伝にも触れられている。
 
この本は、スティーブ・ジョブズが師と仰いだ日本人僧侶、乙川弘文を知るために、弘文の関係者を6年間に渡り日本、アメリカ、ヨーロッパと訪ねてインタビューした本だ。ジョブスについてはいろんな本が出版されているが、乙川弘文についてここまで明らかにしたのは初めてだと思う。
 
弘文は、1938年に新潟の由緒正しいお寺で生まれ、駒澤大学を経て京都大学の大学院を出ている。その後、永平寺に入り、曹洞宗の将来を担う人物として特別僧堂生に指定され期待をかけられるが、2年後、1967年に招かれてサンフランシスコに渡る。アメリカではカリフォルニアやコロラドで何箇所もお寺を立ち上げる。ジョブズがアップルを追放された1985年から1995年の10年間、ジョブズにとっての不遇の時代に2人は親密だったそうだ。一時弘文の家族はジョブズの家に居候していた。その後、ヨーロッパにも指導に行くようになり、そこでドイツ人の女性と2回目の結婚をする。2002年、64歳の時にスイスの友人の別荘に滞在していた時、そのドイツ人女性との間にできた娘が庭の池に転落、助けようとした弘文ともども溺死してしまう。
 
インタビューされた人が弘文について語る部分と、著者がインタビューの旅を続けていく中で考えたことを綴る部分が交互にあらわれる。著者と一緒に関係者を訪ねて旅をしている気分になる。読み進めるにつれ、弘文の人物像がだんだん明らかになる。弟子たちにとっては、現実離れした素っ頓狂な面もあるけれど、全力で自分たちに向き合い受け入れてくれる、素晴らしい師。家族にとっては稼ぎもないのに、酒ばかり飲んで、社会に適合できない弟子たちを家に招き入れる困った父親、
 
時間を守れなかったり、アルコール依存になったり、パートナーがいるのにスイスで別の女性と結婚するなど、困ったところもあったけれど、アメリカでもヨーロッパでも人を惹きつける不思議な魅力があった人らしい。その点はインタビューをうけた人は皆認めている。一方、日本では、寡黙で真面目な曹洞宗のお堅いエリート僧侶。そのギャップにアメリカで何があったんだろうと不思議に思いながら読み進めると・・・・。
 
1995年から1998年にかけてサンタクララに住んでいたことがあるので、ロスガトスの慈光寺や、モントレーの南の山あいにあるタサハラ禅センター、サンフランシスコ禅センターの近くまで行ったことがある。しかし、その当時は禅の拠点があることなど知らなかった。当時はアップルを追放されたジョブズが、アップルに復帰するとかしないとか、地元新聞のサンノゼマーキュリーに毎日のように記事になっていたことが懐かしい。
 
アップル、スティーブ・ジョブズ好きの人は読まねばなるまい。
宿無し弘文 スティーブ・ジョブズの禅僧

宿無し弘文 スティーブ・ジョブズの禅僧

 

benton.hatenablog.com

うちで踊ろう

先週の土曜日、1階の部屋で本を読んでいると、娘がピアノ弾きながら歌の練習を始めた。娘は高校の合唱部に所属している。今回の新型コロナウイルスのせいで、3月の上旬から部員が集合しての練習はほぼできていない。家で腹筋などのトレーニングや発声練習など、ひとりでもできることをやっている。

 

だから、またいつもの練習か、1時間もすれば終わるだろうと思い気にもしていなかった。ところが、2時間経っても終わらない。昼ごはんを食べた後も妻にピアノ引かせて音程を取りながら練習を続ける。私は、何時間も同じフレーズを聞かされていい加減ウンザリしてくる。娘が歌うアルトのパートは、主旋律でもないので、何を歌ってるかもよくわからず、しかも下手くそなので音程が安定しない。イライラしてきたので家庭の平和維持のためには、しばらく家を出た方が良さそうと判断して、卯辰山方面に散歩に出かけた。

 

夕方に帰ってきてもまだ練習している。話を聞くと、6人がそれぞれ家で歌っている姿を動画に撮って部長に送り、部長さんが編集して合唱にするらしい。夕方までに動画を送ることになっていたのだけれど、仕上がらないので待ってもらっていると言う。娘も焦っているようで、涙目でもう諦めようかと言い始める。どうせ編集するなら、音程とか尺も調整できるのだから、今の状態で送ったら。と無責任なことを言うと、もう少し頑張ってみると意地をはる。

 

結局、夜の10時過ぎにようやく、納得のいくものを送ったようだ。で、翌日にアップされていたのが、これ。

 

再生回数が1週間で7万回を超えていて驚いた。

迷うことについて

「隔たりの青」というタイトルのエッセイと、彼女の家族や恋人、友人のことをふりかえるエッセイとが交互につづられる。東欧から祖母がアメリカへ移民したあとの波乱の人生、ネバダの砂漠の一隅に引きこもる恋人を訪ねたこと、友人が自殺したことなど。

 

衝撃的な事件もある。人が生きていれば、誰にでもあるだろうなと思う出来事もある。それぞれ、何が起こったのかはもちろん、そこに至るまでの経過、本人との関係の変化が伝わる。表現がうまい。例えがうまい。ありありと伝わる。

 

全編に通底するテーマは表題の「迷うことについて」。道に迷う、人生に迷う。著者は、人は迷うことを恐れすぎではないかと言う。迷う=自分を失うことは、世の中の常識や制度、地図で把握できる部分からはみ出して、むき出しの世界と直接対峙すること。自分を全てさらけ出して、状況に任せる。迷っていることを自覚して、迷うことに慣れるべきだと言う。

 

突然だが、私の妻は迷うことが得意だ。出かける時は行き先の詳しい状況は調べないし、どうやっていったらいいかも適当なままとりあえず出かける。スケジュールも適当でいった先で面白いものを見つければ、気がすむまでそこで時間を過ごす。一方私は、どんなところか調べて、行き帰りの交通手段と所要時間を調べて、スケジュールまできっちり想定しておかないと安心できない。最初は、妻のあまりの適当さ加減に呆れて、イライラしていたが、ある時から、これはこれでいいと思えるようになった。道に迷ったら素直に人に聞けばいいだけの話だし、予定の時間を過ぎても、面白いと思った場所で、心ゆくまで楽しんだ方が実り多い。それで、帰りの電車に乗れなくても、大した問題ではない。そう思えるようになるのに20年かかったけどね。

 

なぜだろう、女性のエッセイは切れ味が鋭い。須賀敦子さんを初めて読んだ時のような衝撃。説教臭くないのがいいのかもしれない。自分が体験したことを足場に、感じたことを感じたままに語るのがいい。

迷うことについて

迷うことについて

 

 

何を優先すべきか

新聞では、コロナウイルスの影響で2020年の経済成長率はマイナス3〜6%になる見込みとある。これまでの私であれば、「これは大変だ。大不況、失業者が大幅に増える。どんな手段を使ってでもマイナス成長避けなければ。」と受け止めただろう。今は、「多少経済がマイナスになっても、とにかくコロナウイルスの感染拡大をまずは阻止しなければ。できるだけ早く阻止して、経済のことはそのあと考えればいい。」と思う。新聞の紙面に登場する、経済成長率、GDP、マイナス、などの単語がどこか他人事のように感じられる。今は、安心して外出して人と会って話ができる状態に戻すことが一番大事だ。人の優先順位なんて、状況次第で簡単に変わってしまうもんだ。
 
経済が数%マイナスになっても、自分の生活は、住むところと食べるがなくなるわけでないので、なんとかなる。でも、経済が数%マイナスとなるダメージは、全員に満遍なく及ぶものではない。どうしても、一部の人に偏ってしまう。人によっては、収入が50%、100%減ってしまう。逆に、変わらない人、増える人もいるだろう。そんな人たち全部を平均してのマイナス数%なのだ。
 
だから、今回、感染拡大を防ぐために休業しなければならない業種には補償をしなければならない。対象業種が休業してくれるおかげで、感染を抑えるという社会全体にとっての効果があるのだから、休業の費用は社会全体で負担すべきだ。そうしないと痛みが一部の人に偏ってしまう。
 
だから、感染防止のための政策と、コロナ後の経済対策を厳密に分けて考えないと混乱する。個人への10万円配布は、お金がないから働きに出かけないと死んでしまうという人が外出するのを抑制するため、人々を家にとどめておくためのお金。感染防止の費用だ。だから、貯金に回ろうが、消費拡大の効果がなかろうが関係ない。お金の心配をしないで家に居てもらえるように、できるだけ早く配らなければ意味がないのだ。それは、休業要請の対象となる企業への補償も同じ。
 
今はまだ、感染収束後の経済対策を考えるべきときではない。コロナは長期戦になりそうなので、今予算措置したところで社会が大きく変わってしまい、役に立たないと思う。