祖父の戦争

一人暮らしの母の生存確認にのため、月に一度は週末に母に会いに行って実家に泊まるようにしている。土曜の夕方に実家へ行って、一緒に晩御飯食べて、テレビ見ながら夜を過ごし、翌日の午前中に庭の草むしりや窓ガラスの掃除など、母一人ではこなしきれない家の仕事をやってお昼ご飯を食べて帰ってくる。
 
2年前の7月ごろだったと思う。晩御飯を食べ終わって、戦争を扱ったテレビ番組を見ていた時に、母がポツリと話した。
「母さんが小学生くらいのときかな、爺ちゃんが友達と家に集まって、戦争の話をしているのを聞くのが嫌やった。戦争で中国へ行った時に、中国の人に悪さをしたことを聞いているのが嫌やった。女の人とかに。」
 
母がそんなことを語ったのは初めてだったので、私はどう返していいかわからず、「へぇ、そんなことあったんや。」と曖昧な言葉を返してその場はそれ以上話しはしなかった。
 
祖父は、1917年生まれで2001年に84歳で亡くなった。戦争が終わった1945年の年齢が28歳。私が子供の頃、お盆や正月で親戚が集まった時には、軍隊時代の話をよくしてくれた。金沢城にあった駐屯地で過ごしていたこと、走るのが早くて中隊だか大隊のマラソン大会で1番になったこと、中国に出征した時は、延々と続く行軍が辛かったこと、45分歩いて15分休憩を徹夜で繰り返す。眠くて眠くて歩きながら寝ることもあったこと、敗戦の時には本土決戦に備えて千葉の九十九里浜塹壕を掘っていたこと。などなど
 
そんな断片的なエピソードは聞いていたが、祖父が何歳ごろ兵隊に取られていたのか、中国にはいつ頃行っていたのかなどは知らなかった。母に聞いても、知らない、祖父と話したこともないと言う。
 
身内の従軍経験について具体的に突き付けられたことがなかったので、ずっと気にはなっていたが、それ以上踏み込むこともなく2年が経過した。今年の4月になって、ふと、金沢城の駐屯地にいたことを手掛かりに少し調べてみようかと思った。
 
ネットで検索すると、金沢城には陸軍の第九師団の本部が置かれ、第九師団の指揮下の歩兵第七連隊が駐屯していたことがわかった。ウィキペディアの歩兵第七連隊の沿革を見ると、
1932年:第一次上海事変で上海呉松に上陸
1935年:満州駐留
1937年:帰還するも動員下令で再び上海に上陸
1939年:帰還
1940年:満州駐留
1944年:7月、沖縄へ移動 11月に台湾へ移駐
 
とある。祖父は1917年生まれなので、1932年(昭和7年)の第一次上海事変の時は、まだ15歳、1937年(昭和12年)の上海上陸の時には20歳。となると戦争で中国に行ったのは1937年(昭和12年)の上海上陸より後のことになる。
 
1937年といえば、日中戦争が始まった年だ。その年の7月に盧溝橋事件が勃発、軍事衝突は上海にも飛び火する。8月に日本軍は上海に向けて援軍派兵を決定し全面戦争に発展する。歩兵第七連隊は上海への応援部隊として動員されている。
 
さらに調べていくと
この論文にたどり着いた。「第九師団と南京事件」岡野君江
上海での戦いから、南京への追撃戦まで、金沢に本拠をおいた第9師団、その傘下の歩兵第七連隊は関わっている。特に南京では、敗残兵の掃討戦において第七連隊は、多くの住民が逃げ込んだ国際難民区を担当している。南京事件の核心とも言える地域だ。
 
もしかしたら、祖父が南京事件に関わっていたかもしれない。
 
そう思うと気になって調べる手が止められない。歩兵第七連隊の戦史をまとめた本がないかと、調べると、中国へ派兵されていた当時の連隊長である伊佐一男さんが中心となって、歩兵第7連隊のOBがまとめた「歩兵第七聯隊史」という本があることがわかった。金沢市の図書館にもある。
 
早速図書館の参考資料室で閲覧する。同じようなことを考えて調べる人が多いのか、たくさん読まれて紙がよれよれになっている。文章は簡潔。でも実際に指揮をとった連隊長がまとめただけあって、毎日の出撃の時刻、戦闘終了の時刻が記され、朝の軍隊配置の状況と戦闘終了時の配置は図面になっている。巻末には戦死者の所属、氏名もまとめられている。実際に戦った人たちが書いているので、実際の緊迫感が伝わってくる。
 
上海攻略の戦いは激しかったようだ。戦死者が多いことでわかる。南京に迫るにつれ、逃げる敵を追う掃討戦の気配が強くなる。毎日の記載も淡々としてくる。南京に入ったのが12月11日、国際難民区の掃討作戦が行われたのが12月16日。その日の記載は、掃討戦をやったというたった1行。詳しいことは何も書いてない。
 
ここまで調べてみて、自分が日中戦争について時代背景を何も知らないことに気づく。せっかくなので、これを機に関係する本を何冊か読んでた。読んだのは、
 
日中戦争」波多野澄雄他(新潮新書
「生きている兵隊」石川達三(中公文庫)
 
南京事件でいったい何人の犠牲者があったのか?については、「南京事件」を読むと、これまでの議論の大まかな流れがわかる。大体の感触をつかむことができる。
 
加藤陽子さんの「満州事変から日中戦争へ」は、資料をもとに理詰めで事実を明らかにしていくところが面白かった。加藤さんは日本学術会議のメンバーに推薦されたけれど、政府に任命を拒否された人。そんな興味もあって読んでみた。
 
「生きている兵隊」は、記者として上海から南京までの戦いに従軍した石川達三が、その時の状況を帰国後すぐに小説として発表したもの。当時のことなので検閲で伏字の部分はあるが、よくここまで書けたなと思うくらい虐殺の場面など結構あからさまに書いてある。
 
いったい祖父は南京事件の時に兵隊として関わっていたのか。母にあらためて聞いてみても、自分が生まれる前のことなのでわからないという。
 
なんとかして調べることはできないか、ネットで戦争関連の記事をいろいろと眺めていたところ、軍歴証明という公文書があることがわかった。軍人恩給の支給の根拠となる大事な書類らしい。県が取り扱っていて6親等以内の親族であれば、戸籍や住民票など本人との続柄がわかる書類を添えて申請すると取り寄せられることがわかった。
 
早速、母にお願いして申請してもらった。申請して3日後にあっさり届いた。以下はその内容の抜粋
 
 昭和13年  12月10日 歩兵二等兵 臨時招集のため歩兵第7連隊補充隊に応召
                                          第1中隊に編入
 昭和14年 2月18日       歩兵第7連隊補充員として宇品港出発
 昭和14年 2月22日       呉松港上陸
 昭和14年 3月15日 歩兵一等兵
 昭和14年 3月22日       第3中隊編入
昭和14年 3月14日             粤漢線方面の警備に従事
昭和14年  5月11日              
昭和14年    5月12日         新墻河大雲山付近の戦闘に参加
昭和14年    5月25日      
昭和14年    5月26日         新墻河沙港以北及岳州方面の警備に従事す
昭和14年  6月  8日 
 同   日             復員下令
 昭和14年    6月  9日                            内地帰還のため嘉魚に集結
 昭和14年    6月16日                            嘉魚出発
 昭和14年  6月27日                           宇品港着
 昭和14年  7月  7日                            召集解除を命ず
 
昭和14年(1939年)は、日中戦争が始まって3年目。第7連隊は、上海・南京から、徐州を経て、武漢での戦闘も終わった頃だ。戦闘に参加したのは5月12日から5月25日までの2週間だけだったようだ。
 
時期はわかったが、見慣れない地名ばかり。読み方すらわからない漢字もあるので、パソコンの手書き入力で漢字を特定して検索する。
 
まず、出発地の「宇品港」、これは広島の港。「呉松港」は上海の港。「粤漢線」は、中国の鉄道の路線名。中国を南北に北京から広州までを結ぶ幹線だ。「新墻河大雲山」新墻河は長江の支流で、武漢から長江を200キロくらい遡ったところに合流点がある。洞庭湖の近くだ。大雲山は新墻河の河口から東へ行ったところ、通城市との間に広がる地域。新墻河と長江の合流点がココ。
 
「嘉魚」は武漢近くの郡の名称。
 
武漢のあたりで、鉄道の警備を2ヶ月ほどやって、その後、戦闘の期間は2週間ほどだったようだ。しかも、戦闘が終わってすぐに日本に帰還している。鉄道の警備のため、深夜に銃を担いで線路沿いを歩いている祖父の姿を想像してみる。
 
日中戦争でのの日本軍の勢力圏をあらわした地図を見ると、日本軍が一番奥深く中国の内陸部に入った地点で従軍していたようだ。
 
戦闘の状況については、「歩兵第7聯隊史 武漢戦」では、「新墻河作戦については記録に微すべきものがないので、戦闘行動を記載することはできないが」とそっけない。あまり激しい戦闘はなかったようだ。通城を出発して西に向かって進軍したようだ。5月25日まで戦闘に参加して、6月8日には復員命令が下っている。
 
6月27日に宇品港に、6月28日に第1陣が金沢に到着、駅で市民の大歓迎を受け、武蔵ヶ辻、香林坊をパレードして、護国神社へ参拝後、金沢城内の兵営に入ったとある。
 
当時の新聞も確認してみた。玉川図書館の資料室で北国新聞の昭和39年6月分の新聞をマイクロフィルムで読んでみた。28日の夕刊に、第一陣が帰還したと一面にある。到着した兵士の名前がひとりづつ出身地とともに記載している。29日、30日の新聞もみたが祖父の名前はなかった。何回かに分散して金沢に帰還しているので帰還は7月に入ってからなのかもしれない。
 
地名や時間は、軍隊が行動経緯がわからないようにすべて伏せ字になっている。金沢に帰ってきたのだから金沢駅であるのは明らかなのに、○○駅と書いてある。それと、当時は夕刊を購読するのがあたりまえだったのか、夕刊で報道した記事は翌日の朝刊には掲載されていない。
 
結局、祖父は、武漢戦の後の比較的落ち着いた時期に従軍し、あまり激しい戦闘に参加していなかったようだ。
 
軍歴証明には、その後の経歴も記載されていて、昭和18年9月に歩兵第107連隊に応召、昭和19年7月に歩兵第203連隊に転属、その年の12月25日から昭和20年2月15日まで、A型パラチフス(腸チフス)で千葉県下志津陸軍病院に入院している。敗戦のとき九十九里浜塹壕ほっていたという祖父の話とも整合する。
 
下志津陸軍病院は、千葉県の四街道市にある今の国立病院機構下志津病院のこと。近くに陸上自衛隊の下志津駐屯地もあるのでここで暮らしていたのかもしれない。

goo.gl

 
母によると、祖父は大工だったので軍隊内で建物の修繕など何かと便利に使われていたらしく、そのおかげもあって太平洋戦争の末期にも戦地におくられることもなかったのではないかと祖母がよく言っていたらしい。
 
夏になると、戦争をテーマにしたテレビ番組が放送されて、私もたくさん見てきたけれど、自分とは離れた出来事、他人事としてみていたようだ。自分の祖父の経験に思いをはせてみると、そこから具体的に知りたいことが次々と芋づるのようにわきあがってくる。地元からどのくらいの割合の人が従軍して、戦死したのか。その時の世の中の雰囲気。何を楽しみに暮らしていたのか。戦後は従軍した経験をどんな思いで胸の内に持ち続けてくらしたのか。傷痍軍人てどんな人達だったのか。軍人恩給ってどのくらいもらえたのか。

 

祖父が存命の時ならば、直接聞けたのにとも思うが、生々しい話は家族には語れなかっただろう。時が経過して直接の経験者がいなくなり、怨念が解けることで、かえって歴史として正面から向き合うことができることもあるのではないか、と思う。

 

 

 

 
 
 
 

中国の歴史

講談社学術文庫の「中国の歴史」を読んでいる。全部で12巻まであるうちの第4巻「三国志の世界 後漢 三国時代」の半分まで到達した。
 
中国の事はある程度知ってるつもりでいたけれど、全然わかっていないことに気づきました。夏、殷、周、春秋戦国時代、秦、漢、三国時代・・・・。王朝の流れはなんとなくイメージはある。でも、それぞれの王朝が中国の中のどの辺りを拠点として、対立する勢力がどこにあったのかなど、場所のイメージが全くない。
 
今の中国の地理のことだって、北のほうに北京があって、真ん中の海岸沿いに上海があって、南に香港、内陸部に四川省があるくらいしか土地勘がない。春秋戦国時代の各国の場所、三国時代の魏、呉、蜀の場所、戦いのあった場所、ほとんどわかっていない。
 
国史の中心は、中原とよばれる黄河の中下流域辺りで、長江の南、東北部、四川省辺りは辺境の地。挿絵の地図とグーグルマップ照らし合わせながら読むと、場所の情報が結びついて面白い。
 
中国の歴史は長い。文字資料は紀元前500年くらいんものからある。三国時代は西暦200年代。日本で言えば卑弥呼の頃。中国から見れば、邪馬台国は数ある夷狄の国の一つであることがよくわかる。
 
ちょっと手間だけど、人の名前や場所の名前を丁寧に追っかけて読むと素人でも読み物として楽しめる。この前電子版で半額セールやってたので、9巻まで購入済み。じっくり読もう。

開高健電子全集

暇つぶしに開高健の電子版の全集を、思いつくままに買って読んでいる。
 
岩波文庫で、芥川賞をとった「裸の王様」や「パニック」を読んでみたら、なんで今まで読んでこなかったんだろ、と後悔するくらい面白かった。パニックでは、木っ端役人のオヤジの貧乏くさくてずる賢いいやらしさが、彼のじっとりと脂ぎった皮膚の質感、ムッとする体臭、口臭とともに、目前に立ち上がってくる。
 
臭覚を再現するのがうまい。湿った畳のすえた臭い、ネズミを飼育している部屋の目頭に突き刺さるようなネズミの尿のアンモニアの刺激臭。あんまり気分のいいものではないけれど、そんな臭いが伝わってくるところが気に入った。
 
電子版でまずは、闇三部作の「輝ける闇」、「夏の闇」、「花終わる闇」を読む。次に、晩年である50歳代のエッセイ集を読んでみた。
 
「輝ける闇」は、朝日新聞の記者としてベトナム戦争を取材した時の話がもとになっている。ベトコンに囲まれ200人の部隊で帰還したのが20人以下となるほどの、激しい戦闘にも巻き込まれている。被弾して内臓が飛び出して、その内臓の温もりや、サイゴンの盛り場の湿っぽい、体臭が混じり合った空気感に浸ってしまう。50歳代のエッセイ集は、長年の持病であった背中の痛みを、週2回の水泳教室で直した話が何回も登場する。釣りの話とそこからの失われゆく手付かずに自然を嘆くお話が多い。彼が50代であったのは、1980年代のこと。私が中学から大学生であった頃だ。その頃の私にとって、開高健といえば、週刊プレイボーイの人生相談「風に聞け」を書いている人、釣りの人という印象。50代のエッセイは、今読むとさすがに男性優位目線が気に障る。そんなに面白くもない。ネタ切れの感あり。
 
今読んでるのは、初期の作品集。「日本三文オペラ」は良かった。敗戦直後の大阪砲兵工廠の跡地を舞台に、そこからお金になりそうな金属屑をかっぱらおうとする、アパッチ族とよばれた貧しい人たち、なんとか捕まえようとする警察。その攻防が面白い。その頃の大阪の猥雑さ、貧しい人たちがなんとか生き延びようと汗臭くうごめくところがいい。
 
今までつまみ食いした限りでは、開高健は若い頃の作品が圧倒的に面白い。

予測不能の時代 データが明かす新たな生き方、企業、そして幸せ

「データの見えざる手」から5年、矢野和男さんの新著がでたので早速読んでみた。
 
データの見えざる手では、従業員ひとりずつにセンサーをつけて、各人の体の動きから活動量をリアルタイムで記録し、誰と誰がどのくらいの時間会っていたかも記録することで、社内の人の繋がり方も記録。そこから、人の活動量には限界があり、活発に動いた期間の後には、静かな期間が来ること、誰かと親しくなるとどんどん親しくなったり、何かのきっかけで疎遠になると、どんどん疎遠になる傾向があることなどを明らかにしてくれた。
 
今回の著書では、データを解析しどう応用するかまで進む。具体的には、予測不能な将来に対応するためには幸せな職場が必要であること、幸せな職場とななんぞやということをしめす。
 
幸せな職場には次のような特徴(頭文字をとってFINE)がある。
Flat(均等):つながりが均等
Inprovised(即興的):5分間会話が多い
Non-verbal(非言語的):会話中に体がよく動く
Equal(平等):発言権が平等 

 

こうした組織は未知の問題が降りかかってきても、それぞれのメンバーが問題に果敢に対応するようになるという。
 
道は見つかると信じている
現実を受け止めて、行動する
困難には立ち向かう
前向きなストーリーをつくる
 
予測不能な事象に対応するには、とにかく前向きに行動することが大事であり、理屈をこねて説明できないのでやらないというのでは座して死を待つようなもの。
 
著者がいうには、未知の問題に対応するのは、とかく面倒なことである。面倒なことをするためには、まず従業員が安心して行動できるような職場の雰囲気が必要で、そんな幸せな職場の特徴がFINEなのだ。
 
なるほどと思ったのは、FINEの中のInprovised(即興的)の項目。部下であった頃から職場内のあらたまった会議が大嫌いで、週一のただ日程を報告するだけの会議などは時間の無駄だと思っていた。用があれば個別に言えばいいし、日程はシステムで確認できる。もっともらしい顔をして30分以上も時間使うのが嫌だっったので、自分の権限が及ぶ範囲でそんな会議は廃止してきたのだ。
 
用があれば、思いついた時に当事者同士が会話してしまった方が、素早く対応できる。お互いの状況を慮って、時間ができた時にまとめて打ち合わせしようなどと考えていると、一歩遅れる。
 
今は部下には、何かあったら説明資料も何もいらないからとにかく教えてくれと言ってある。おかげで、みんな報告が早いのは助かる。私の横に置いてある椅子に座ってもらって口頭でまずは説明してもらう。私はどんな内容でもとにかくニコニコしながら聞くようにしている。おかげで短い報告が次々上がってくるのはありがたい。
 
Equal(平等)も大事。職場の上司の立場になって思うのは、意識して部下に話をさせないと、会議といいながら気がつくと自分一人で話しているのだ。良かれと思って自分の考えを話すと、私以外の人が黙って聞くだけの会議になりがちなのだ。できるだけ頼りないアホみたいな顔して、みんなの考えを聞くようにしている。
 
予測不能な未来へ対応するにあたっては、ビッグデータとそれに基づくAIの分析は原理原則からいって役に立たないという。なぜならビッグデータは過去の結果を集めたものにすぎないからだ。
 
その後、予測不能な未来を乗り切るためには「易」の考え方も役に立つという話に展開。変化のわずか兆しをつかむことが重要であり、その兆しへの対応の仕方がパターン化され「易」にまとめられているという。易のお告げにしたがって、従来のやり方にとらわれずに行動することが、未来に対応することに役に立つという。
 
最初はえっ、と思ったが、考えてみれば、そもそも予測不能なんだから誰もが納得するような理論や説明なんぞあるわけがない。わずかな兆しをつかみ、どうなるか予想して自分の判断にかけるしかないのだ。その一歩を踏み出す時に「易」が役に立つんだろう。
 
著者は、この本の内容を元に幸せを増進するためのアプリも開発している。先週からスマホに入れて試しているが、毎朝ほんの数分でも、一日どう過ごすべきかに、アプリのお告げを元に考えてみる、意識を向けるだけで、少し行動が変わるような気もする。活動量も計測されるので1日の振り返りもできる。
 
しばらく続けてみる。

欲望の錬金術 伝説の広告人が明かす不合理のマーケティング

経済合理性だけを重視して行動するのを止めませんか? というのが本書のテーマ。冒頭にレッドブルが例として取り上げられる。変な味がして、量が少なくて、値段が高い飲料がどうして世界中で年間60億本も売れるのか。合理的に考えれば、美味しいものを、たくさん、安く買いたいはずなのに。著者はその理由を、レッドブルが活力増進に効き目があることを、赤い牛のマークとともに、変な味、少ない量、高い値段、が消費者の無意識に強烈に印象付けているからだという。

人間が関係する事象には、物理学と違って客観的な事実などない、当事者が何を目的としているのか、その時の文脈よって意味が違ってくるので、状況が違えば経済合理性で最も良い選択肢ではなく、最善ではないが致命的な惨事に陥ることがない、そこそこの選択をすることも十分ありうる。また、異性に選ばれるためなら、社会的な面子を維持するためなら、化粧品や洋服、クルマなどにとんでもない金額を費やすこともある。

こういう、一見非合理にみえる選択は無意識に行われ、行動した後に、もっともらしい、いかにも合理的な理由を後から付け加えることになるので、本音の理由はわかりにくいが、人にものを売ろうと思ったら、無意識下の身もふたもない理由に訴えかけるべきなのだ。

著者のローリー・サザーランドは世界的広告会社オグルビィUKの副会長。ものを売るための手練手管を知り尽くした人だ。
客観的な事実などどうでもよくて、顧客にどう思われるかが全てである例として、お菓子の材料を健康的なものに変更した場合に売り上げが落ちてしまうことをあげている。事前にテストして変更前と後で味が変わってないという結果が出たとしても、消費者は体にいい材料が使われていると聞いただけで、味が変わったと感じるのだ。大抵は、それで既存の顧客だ離れて売り上げが落ちてしまうらしい。まず、消費者にわからないように成分だけ変えて、数年してから実は健康に良い成分を使っていることをPRすべきなのだ。そうすれば、既存の顧客は離れていかないし、健康的な材料を使っていることで、そういったことに関心がある新たな顧客にも買ってもらえるかもしれない。

経済合理性とともに、ビッグデータに頼ることの危険性も著者は指摘する。どんな大量のデータであれ、データの出所は過去なのだから、それをいくらこねくり回して分析したところで、未来の状況の変化に対応する助けにはならないのだ。人間はそんな不確定な未来に生き残っていくために、行動経済学でいうところの「ヒューリスティク(発見的手法)」を進化させてきた。これは、必ず正しい答えを導けるわけではないが、ある程度のレベルで正解に近い解を得ることができる方法である。発見的手法では、答えの精度が保証されない代わりに、解答に至るまでの時間が短いのだ。

もちろん、データを無視すればいいというわけでなく、時々は合理性の裏にある無意識にまで下りて考えてみようということだ。

 

 

 

収容所のプルースト

思えば石引パブリックの本棚で、この本「収容所のプルースト」を見つけたのが3年前。第2次世界大戦中にソ連強制収容所に入れられたポーランド人将校が、極寒の収容所内でプルーストの「失われた時を求めて」について、本もノートもなしに記憶だけを頼りに、捕虜たちを相手に講義をした。という帯の説明に惹かれた。ただ、この「収容所のプルースト」をちゃんと理解するためには、大元の小説をまずは読まなきゃと思ったのが、「失われた時を求めて」を読むことになったきっかけだ。
 
岩波文庫の13巻ものを読むのに1年以上かかった。最初は面白かった。同性愛の話や、思うようにならない恋人オデットに対して嫉妬の炎を燃やすスワンの心理をそこまで細かく描くかと思うくらいの、執拗な観察と記述に舌を巻いた。
 
7巻から8巻あたりは退屈だった。延々と続く夜会の描写。19世紀末のパリの世相が分かって入れば面白いのかもしれないが、ピンとこない。訳注や絵もまじえて、解説してくれるのだが、解説をその都度読むのも、読書のリズムが寸断されてイライラするのだ。途中で投げ出そうかとも思ったが、ここは我慢して読み進めた。
 
10巻を過ぎると、アルベルチーヌと主人公のお話が大きく動くので、再び面白く読めたい。
 
先週、再び石引パブリックの書棚で、「収容所のプルースト」を見かけたので迷わず買った。この本を読むために「失われた時を求めて」全13巻読んだのだから。この本自体は3時間で読めた。
 
内容は「失われた時を求めて」の解説。面白かったのは、プルーストはアレヤコレヤの長大な時間の流れをそのまま小説に閉じ込めたかったらしく、最初は全てを1冊の本にまとめてしまって、章立てもせず、改行もなしに、時間の流れ、意識の流れそのままのような形式にしたかったらしい。
 
一文がやたらと長くて、だらだらと続く時間の流れそのままを体験するかのような文体で思い出した。吉田健一の文体と同じではないか。
 
吉田健一の小説「金沢」や「時間」は、一文が異様に長く、改行もなく、時間の流れのように話が進む。読んでいる時の感覚も似ている。一文が長すぎて、もはや論理的に文章を追えなくなり、文章のリズムや表現に身をまかせるしかなくなるのだ。文字を追っているうちに、居眠りをしているのか本を読んでいるのかさえ定かではなくなる、朦朧としてくるのだ。プルーストも吉田も、最初は何じゃこりゃ、何言ってるのか全然頭に入ってこないと思うが、文体に身を任せていると心地良くなってくる。
 
吉田がプルーストを真似たのではないかと勘ぐり、彼がプルーストについて何か書いていないだろうかと調べたところ、著作集の21巻に「プルウストの小説」という文があった。
 
そこに書いてあったのは、人や景色を見るという行為は、見る人が過ごしてきた過去の体験の蓄積があっての、その人であり、景色なのだ。その人を特徴を箇条書きにすれば捉えられるものでもなく、記憶の積み重ねを踏まえて見えてくるものがある。プルウストはその記憶の積み重ねを、そのまま小説に描いて、その積み重ねを踏まえてどう見えるかまでも読者に体験させようとしている、というようなことが書いてあった気がする。
 
吉田の小説も記憶の流れ、時間の流れを総体として読者に経験させようとしている。プルーストと同じことを試みようとしたのではないか。
 
私の単なる思いつきなのだが、この考えはあっているのか、吉田がプルーストや自分の小説について他に何か書いていたいか調べてみたい。

 

収容所のプルースト (境界の文学)

収容所のプルースト (境界の文学)

 

 

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開高健 電子全集1 漂えど沈まずー闇三部作ー

岩波文庫の「開高健短篇選」が面白かったので、開高健をまとめて読んでみようと、電子書籍でまずは「闇三部作」を購入した。
 
闇三部作とは、1968年に発表された「輝ける闇」、1972年「夏の闇」、没後の1990年に未完のまま発表された「花終わる闇」のこと。
 
「輝ける闇」は1964年に朝日新聞の臨時特派員として戦時下に取材したベトナムでの体験を元にしている。200人の部隊のうち生き残ったのが17人という激しい戦闘の体験が物語の中心になっている。当たり前だが、相当強烈な体験だったらしく、この戦闘については「夏の闇」、「花終わる闇」でも繰り返し描写されている。
 
「夏の闇」は、ベトナムから戻って数年後、主人公は、パリと思しき町の場末のアパートに引きこもっている。そこに旧知の女性を呼び出して、一緒に滞在する。何するわけでもなく、ご飯食べて、酒飲んで、寝て、街をうろつく。その後、女性が住むドイツの町の、お屋敷街にある近代的な小綺麗なアパートに移動すして、そこでも二人で部屋に引きこもる。女性は昼間は大学に通うために外出するのだが、主人公はひたすら女性の部屋で、酒飲んでご飯食べて昼寝して、女性が帰ってきたら、ひたすらいちゃついている。
 
二人は部屋では裸で過ごす。部屋で過ごす様子にこんな描写がある。
 
厭味とも誇りともつかない笑いを頰にうかべ、ブラジャーやGパンをぬぎすてる。たわわな全裸になり、首からエプロンをさげる。ポパイやミッキー・マウスドナルド・ダックのアップリケを縫いつけた、幼稚園の先生がしそうなエプロンである。
 
これが、裸エプロンが日本で最初に活字になった文章なのではないか。知らんけど。そんなだらけた生活の描写が呆れるほど細かい。特に、あの場面の描写がリアルに過ぎる。匂い、臭いが伝わってくる。リアルに過ぎて読んでいてげんなりするが、不思議と流れに身をまかせて続けて読んでしまう。
 
二人は、その後、高原の湖に滞在して釣りをして過ごし、当時の西ベルリンのホテルにも滞在する。主人公は釣りをしている間だけは活気に溢れるが、あとはひたすらぐうたらと過ごす。ベルリン滞在中に新聞で見つけたベトナム戦争の記事に主人公が反応する。もうすぐ戦闘が激しくなるとの情報をみて、居ても立っても居られなくなる。通信社の支局をまわって情報蒐集して、ベトナムへ旅立つ決意をするところで物語が終わる。
 
「花終わる闇」は未完の作。着手したが、なかなか書けなかったようだ。「輝ける闇」と「夏の闇」の焼き直し、ネタバラシの感じがする。
 
 
開高健は1930年生まれ。敗戦を14歳で体験している。父親を1943年に亡くしたため、敗戦後の食糧不足は、それこそ食うや食わずの大変な思いをしたそうだ。弁当を持っていけずに、昼休みになると水をがぶ飲みして、ベルトをぎゅっと締めて空腹を紛らわしたそうだ。
戦争が終わった後に、学校が再開されたけれど、校舎は直前まで、召集されて戦地に送られる兵士たちの一時滞在場所として使われていたため、荒れ放題で、特にトイレは処理能力を超える人数が滞在したために、糞尿が溢れて大変なことになっていたそうだ。階段の踊り場なども糞尿まみれで、校舎の掃除と回収に半年かかったとある。すぐ上の世代が、そうやって戦争に駆り出さ、次は自分と思っていたのに、世の中がひっくり返ったのだ。
 
 
ツイッター開高健井伏鱒二の対談の映像を見つけた。開高が井伏に、「私は今、52歳なんですが、戦争が終わった時に井伏先生は52歳、その頃はさぞかし楽しかったでしょう。私はそれがなかった、ひっくり返ったところから始まっている。この先どうしたらいいでしょうか。」と相談している。
 

 

 
二人のこのやり取り、よくわからないところがある。年長の井伏は大人になって敗戦を迎えて羨ましいと開高は言っているのだが、どういう意味なんだろう。敗戦を14歳で体験した自分は不幸だということなのだろうが、その感覚がしっくりわからない。もう少し先に生まれていたのなら、兵士として戦争を体験できたのに、できなかったのが残念ということなのか、それとも、世の中がひっくり返る激動の時代を大人として余裕を持って経験したかったということなのか。
 
ここまで考えて、一つ思いつくのは、中学生の時に体験した世の中の常識が、その後のその人にとっての判断の基準になるのではと思う。中学生の時の感覚にずっとひきづられるんじゃないだろうか。彼がベトナムに何度も通ったのは、彼の兄の世代が戦争に行ったのに自分は行かなかったという、喪失感のようなものがあったのではと思うのだが、その辺はよくわからない。
 
さらにいろんな著書を読んで探ってみたい。

 

開高 健 電子全集1 漂えど沈まず―闇三部作

開高 健 電子全集1 漂えど沈まず―闇三部作

 

 

ブッダが説いたこと

著者のワールポラ。ラーフラは、スリランカ生まれの僧侶。子供の頃から僧侶としての教育をうけ、僧侶として活動するとともに、セイロン大学、カルカッタ大学で学び、フランスのパリ大学へ留学し、フランス人の仏教学者ポール・ドゥミエヴィルのもとで近代的な仏教研究を深める。その時に書かれたのが、この「ブッダが説いたこと」だ。

 
僧侶として仏教を実践し、かつ、西洋人と接しながら仏教を研究した人だけあって、大変わかりやすい。仏教の基本的な教え、四聖諦、八正道、カルマ、縁起、無我などについて一通り論じてあり、丁寧に解説してくれる。
 
一番印象に残った部分は、この世で生きる苦しみ=ドゥッカについて説明した部分。
「苦しみは存在するが、苦しむ主体は存在しない。行為は存在するが、行為主体は存在しない。」移ろいの背後に、自らは移ろうことがない移ろいの主体はいない。ただ単に移ろいがあるだけである。人生は移ろうというのは間違っていて、人生は移ろいそのものである。
 
確固とした我が存在して、行為したり、苦しんだりするのではない。行為や苦しみがあるのみ。我などという主体は存在しないというのが、仏教の大原則なのだ。つまり「我思う、故に我有り。」のデカルトの考えとは全く異なる考え方。
 
道元の「正法眼蔵」に、「行く人は行かない。」というフレーズがあった。人という実態があって、その人が歩くのではない。歩くという行為がなされるだけだ。それも同じことを言っているのだと思った。
 
八正道を3つのカテゴリーに整理して説明している部分もわかりやすい。
八正道というのは、ニルバーナに至るための方法で、快楽を追求するのでもなく、逆に禁欲を突き詰めるのでもない中道を目指す。具体的には、以下の8つを守りなさいということ。
(1)正しい理解
(2)正しい思考
(3)正しいことば
(4)正しい行い
(5)正しい生活
(6)正しい努力
(7)正しい注意
(8)正しい精神統一
 
著者はこの八正道は3つに分けられるという。
倫理的行動→(3)正しいことば、(4)正しい生活、(5)正しい生活
心的規律→(6)正しい努力、(7)正しい注意、(8)正しい精神統一
叡智→(1)正しい理解、(2)正しい思考
 
八正道とは、叡智を身につけ心的規律を守って倫理的行動をなせ、ということなのだ。
 
数年前から少しづつ「原始仏典」を読んできたが、無闇に読み進めるだけでなく、このような解説書も合わせて読むと理解が進むと思った。
 
ブッダが説いたこと (岩波文庫)

ブッダが説いたこと (岩波文庫)

 

 

ラッセル幸福論

バートランド・ラッセルが一般の人向けに書いた、どうやったら幸福に暮らせるのか、について、非常にわかりやすく、実践的に解説した本。
 
まずは、不幸の原因を指摘する。
 
・どうせ人は不幸にならざるを得ないのだというような、諦めた見方。
・他人に負けたくない、ライバルに勝ちたいという競争に明け暮れる態度
・退屈を毛嫌いし、興奮を追い求めること
・働き過ぎ、勉強しすぎによる疲れ
・他人と比較して、羨む妬み
・幼少期に親や先生から刷り込まれた罪の意識
・周り人たちが共謀して、私を陥れようとしていると感じる、被害妄想
・世間体を気にし過ぎる気持ち
 
ざっくりまとめると、他人と比較したり、世間体を気にしたり、自分はダメなんだと思いつめるなど、意識を自分のことばかり向けて一人でうじうじ考えていると不幸になるよという。
 
次に幸福ななるために心がけるべきことをあげる。
・何にでも熱意を持って取り組むこと
・愛情。人から愛情を十分に受ける、または、他人に愛情を注ぐこと
・家族 家族との良好な人間関係を結ぶ
・仕事 建設的な仕事を続ける
・仕事以外のことにも、いろんなことに興味を持つこと
・適度に努力すること。適当なところで諦めること。何事もほどほど=中庸が大事
 
つまり、自分の関心を、自分の外部に振り向けて、外部と関わりを持ち続けること。
そのことを、ラッセルは次のように壮大に表す。
 
「魂の偉大さを持ちうる人は、心の窓を広くあけて、宇宙の四方八方から心に風が自由に吹き通うようにするだろう。彼は、自分自身を、生命を、世界を、限りある身の許すかぎり、あるがままに見るだろう。人間の生命の短さと微少さをわきまえながらも、同時に、個人の精神の中には、既知の宇宙に含まれている価値あるものが全て集約されていることを悟るだろう。また彼は、世界を映す鏡のような心を持った人は、ある意味では、世界と等身大に偉大になる、ということを知るだろう。環境の奴隷に付きまとうもろもろの恐怖から解放されたとき、彼は深い歓喜を覚えるだろうし、外面的な生活にどんなに浮き沈みがあろうとも、心の奥底では幸福な人間でありつづけるだろう。」
 
心の窓を広くあけて、世界を映す鏡のような心を持つと、世界と等身大になる。なんて、仏教っぽい物言いでさえある。
 
わかりやすく、ドライで、実践的な内容なので、ドツボに嵌り込んでにっちもさっちも行かなくなった、大学生の頃の自分に読ませてやりたい。
幸福論(ラッセル) (岩波文庫)

幸福論(ラッセル) (岩波文庫)

 

開高健短編選

開高健といえば、私の学生時代に週刊プレイボーイで「風に訊け」という人生相談のようなものを書いていたことが思い浮かぶ。サントリーの広報部員だったとか、釣り関連の本があるのも知ってはいるけれども、一度も著書を読んだことはなかった。
 
この本には、開高健の短編ばかり11編収録されている。いやぁ、面白い。ストーリーはもちろん、ディテールの表現が豊か、芳醇、多彩。特に、ベトナムの路地裏のドブの臭い、パクチーの癖のある臭い、若い男の体臭、ネズミの尿など、ムッとするような臭いをこれでもかというくらい、執拗に微細に表現する。
 
巻頭に掲載されている開高健の処女作「パニック」は、120年に一度、笹が花を咲かせ実をつけたことがきっかけとなって、ネズミが大発生し林業が壊滅的な被害を受ける話。主人公だけがただ一人、ネズミの大発生を予想し、上司に対応策を早急に実施するように詰め寄るが、上司は先延ばしにして握りつぶす。誰も責任を取ろうとしない。
 
本当は何もしたくないが、かといって何もしないと住民から突き上げを食らう可能性があるので、対策したフリはしたい、というような役所内部でありがちな、いやらしいやりとりを詳細い記述する。上司が主人公と話しながら爪の垢をせせりだすところの表現がリアルすぎて嫌悪感をもよおす。しつこくて、暑苦しくて、汚らしくて目を背けたくなる。
 
目を背けたくなるけれど、そうそう、そんなことあるよなと頷きながら読んだ。暇を見つけて長編も読んでみたい。

 

開高健短篇選 (岩波文庫)

開高健短篇選 (岩波文庫)

  • 発売日: 2019/01/17
  • メディア: 文庫
 

 

ブルース・チャトウィン

ブルース・チャトウィンの「パタゴニア」は、学生時代に、大阪梅田の紀伊國屋書店で偶々見つけて、タイトルに惹かれて購入した。話題が盛りだくさんな割には、簡単な説明で、頭に内容が入りにくいなと思いつつ、我慢して最後まで読んだことを覚えている。読み通して見ると、どこかに旅に出たいという気持ちを猛烈に掻き立てられる不思議な読後感だった。今も手元に置いて時々読み返している。奥付を見ると1990年7月10日発行の初版第1刷。その後も、「ソングライン」、「ウィダの提督」、「ウッツ男爵」を読んだ。「黒ヶ丘の上で」は途中まで読んだ。
 
どの著書も、訪問した土地から発掘された化石や遺跡、人々の歴史や、遭遇した人たちのエピソードが縦横無尽い織り交ぜられるていて、どこまでが事実で、どこからがフィクションかわかりにくいが、著者に身を委ねて読み進めると大変心地好い時間に没頭できる。
 
このニコラス・シェイクスピア著「ブルース・チャトウィン」は、その名の通りブルース・チャトウィンの伝記。800ページを超える大著だ。これまで、本の著者紹介でしかすることができなかったブルース・チャトウィンの生涯を詳細に知ることができる。
 
チャトウィンは1940年生まれで1989年、49歳で亡くなっている。大学を卒業してから数年間、美術品などのオークションで有名なサザビーズで働き、オークションにかける美術品の調査とカタログ作成を担当、本質を捉えてシンンプルに表現する文章は、その中で培われたそうだ。サザビーズの幹部として将来を期待されながらも、美術品業界の裏の世界を垣間見て嫌気がさして退職する。
 
その後は執筆活動に専念するが、なかなか思うような作品が仕上がらない。何度も書き直すが編集者の評判は芳しくない。食うために3年間、サンデータイムズの記者も経験している。記者の経験が、わかりやすい文章を書く修行になったようだ。
 
彼の著書が大好きな人には、あの不思議な雰囲気漂う文章がどこからきたのか、もう勘弁してくれというくらい詳細に知ることができるので、一読の価値あり。

 

ブルース・チャトウィン

ブルース・チャトウィン

 

 

 

パタゴニア (河出文庫)

パタゴニア (河出文庫)

 

 

本を買いに福井まで

福井駅の近くにあった勝木書店が閉店になって、その店に在庫していた大量の岩波の本が、同書店の新二宮店に持ち込まれお店に並んでいると聞いたのが10月の始め。冷やかしに行こうと思ったのだが、なんやかやと踏ん切りがつかず12月になってしまった。
 
 
今日は特に予定もないので、遅ればせながら福井まで行くことにした。のんびりと電車で行って、文庫や新書を物色して帰りに福井駅前で本でも読みながら、昼飲みしてこようという魂胆。
 
妻には福井に本を探しに行くとだけ伝えて、金沢駅まで送ってもらう。午前9時30分の福井行き普通列車に乗る。車内は席がちょうど全部埋まっているくらいの混み具合。北陸の冬特有の灰色の雲に覆われて雨がしとしと降る。景色を見ていても気が滅入るので、ようやく半分まで読み進めたブルース・チャトウィンの伝記を読み進める。途中、松任から小松まで居眠りする。約1時間30分で福井駅に到着。
 
ここからえちぜん鉄道三国芦原線に乗り換える。白地に青い模様の車両が1両だけの電車。福井駅から三国港までを約50分で結ぶ路線だ。車両に乗り込むと意外とお客さんがたくさん。三国でカニを食べようと、ガイドマップを広げる年配の男性の6人組など、観光客が7割ほど。残りは高校生やご老人など地元の人たちだ。アテンダントと称する若い女性の車掌さんも乗っていて、料金の徴収や簡単な観光案内をしている。ちょっと込み入った話になると、シュッとしたユニホームに身を包んでいるが、観光客にオススメの店を聞かれると、のんびりした響の福井訛りが飛び出して車内が和む。
 
私は、福井駅から8っつ目の八島という駅で降りる。グーグルマップでは駅から本屋さんまで歩いて3分とあるけれど、どっちの方向に歩いて行ったもんやらと思いながら、八島で降りた5人ほども人が歩いて行く方向について行くと、すぐにショッピングモールと、その中の本屋さんの看板を見つけた。
 
岩波書店の本のコーナーは、2階の奥にあった。文庫も新書もこれだけ大量に並んでいるのは初めて見た。何が欲しいのかわかっているときは、ネットでも買えるのだが、特に目的もなく、背表紙を見てなんとなく手にとって、立ち読みしながら本を選べるのはやはり楽しい。
 
今回買ったのは、この6冊。
開高健短篇選 (岩波文庫)

開高健短篇選 (岩波文庫)

  • 発売日: 2019/01/17
  • メディア: 文庫
 

 

続審問 (岩波文庫)

続審問 (岩波文庫)

 

 

意識と本質-精神的東洋を索めて (岩波文庫)
 

 

言語―ことばの研究序説 (岩波文庫)

言語―ことばの研究序説 (岩波文庫)

 

 

ブッダが説いたこと (岩波文庫)

ブッダが説いたこと (岩波文庫)

 

 

 また、積読本が増えて妻に嫌な顔をされそうだけど、我ながらいい選択をしたと一人で満足する。

 
八島の駅まで戻ると、ちょうど福井駅行きの電車が入ってきたところ。乗り込むと高校生で満員。行きの電車のアテンダントさんと同じ人だった。三国まで行って戻ってきた電車に乗ったらしい。電車が走り出すと、アテンダントさんにどちらまでと聞かれて、料金を支払い、整理券と引き換えに乗車券を受け取る。なんとも、人手だのみのアナログな方法、プリペイドカードにするとか、車内に切符の自動販売機を置くとか、いろいろ合理化できることはあるだろうにとも一瞬思ったが、自動化のための設備投資の金額やら、すでに雇っている従業員のことなど、いろいろ考えてこのやり方に落ち着いたのかもしれないと考え直す。車掌さんが乗っていると、なんだか安心感もあるし。
 
駅に戻ると午後1時を過ぎていた。駅の西側に出たところにある、ビルの1階に飲み屋が2軒並んでいる。店頭のメニューを見てどちらにしようか考える。片方もお店は「くずし割烹」と称し、少し小ぎれいで、カニなど福井の名物を前面に打ち出し観光客も意識したメニュー構成。もう一方は、赤提灯系の地元のおじさんが、昼間っからとぐろを巻いていそうな店構え。迷うことなく、赤提灯系に入る。
 
先客は、観光客と思しき、二人連れの女性客が2組、テーブルでお昼の定食を食べている。カウンターには、地元の常連さんらしきおじさんが4人、それぞれ飲んでいる。私はカウンターの一番端のレジ前の席に通される。レジ前は嫌だなと思ったが、初めての店なので仕方ない。大人しく座る。
 
「ランチですか、お酒飲みますか?」と聞かれ、「お酒お願いします。」ときっぱり。燗酒は何がありますかと聞くと、一富士と一本義があるとのこと。聞いたことない名前だったので、一富士の大徳利を注文。
 
つまみは、シメサバとモツ煮込み。金沢だとおでん屋さんで牛スジ煮込みは定番だが、モツ煮込みを出す店はあまりない。お通しで出された、魚のアラと人参などの野菜を甘く煮たものを摘みながら一富士を飲む。
 
シメサバには紅生姜が乗っかっていた。大阪の立ち飲み屋のような庶民的なシメサバだ。モツ煮込みは、モツの香りが少し残り赤味噌で煮込んでしっかりとした味付け。どちらも熱燗に合う。さっき購入した「開高健短編選」の「パニック」を読みながら、ちびちびお酒を舐めるように飲む。読んでいる途中に、「そういえば、開高健って福井県と関係があったはずだよな。」と思い出す。「でも出身地は大阪のはずだし、どうだっけ。」と一人でブツブツ言いながらiPadで検索する。ウイキペディアによると開高健の祖父母が、福井県坂井市丸岡町の一本田の出身とある。2年前に亡くなった叔母が丸岡町に嫁いで一本田に住んでいた。お葬式で丸岡に行った時に開高健の文学碑を見たことを思い出す。
 
大徳利を空けて、いい具合に酔ったところで店を出る。せっかく福井まで来たのだから、おろし蕎麦を食べて帰ろうと駅の近くの蕎麦屋さんに入る。メニューを見ると、お酒とつまみもあるのでもう一度飲もうと一瞬頭をよぎったが、思い直して、おろし蕎麦と焼き鯖寿司のセットを発注する。
 
コシのある太めの麺を大根おろしにつけて、さっぱりと食べる。蕎麦湯も飲んだら満腹になった。
 
15時09分福井駅始発、金沢駅行きの普通列車に乗る。金沢着は16時40分。もうすでに暗い。駅は年末の買い物客と観光客で大にぎわい。妻に頼まれていた、キャンベルのクラムチャウダーの缶詰とフランスパンを買い、酔い覚ましも兼ねて家まで歩いて帰った。

スペアリブ

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ネットで美味しそうな中華料理を次々と紹介してくれている、酒徒さんのレシピで、スペアリブの紹興酒蒸しを作った。
 
 
この料理は一年くらい前に一度作ったことがある。蒸しあがりを娘と二人で食べ始めたのだが、あまりの美味さに妻の分も二人でたいらげてしまい気まずい思いをした。
 
娘にとっても相当インパクトがあったようで、しばらく前から何かにつけ、「あのスペアリブの料理が食べたい。」と言うので、今回は3連休最終日、みんなが揃っている晩御飯に作って、妻にも食べてもらうことにした。
 
まずは、香林坊にある地元百貨店「大和」の地下にあるお肉屋さんで、スペアリブ1キログラムを買う。骨が短めのやつ、一口サイズの肉を選んでもらう。出来上がりに散らす青ネギと、一緒に食べるスープ用に白菜としめじも購入。帰りがけに近所の酒屋で紹興酒を購入。
 
調理は簡単。スペアリブは血抜きのためしばらく水に浸しておく。その後に、ニンニク、生姜をみじん切りにして紹興酒と醤油と一緒に混ぜたものに1時間ほど漬ける。味が染みた頃に肉を取り出して、片栗粉をまぶして30分ほど蒸して出来上がり。
 
蒸し物は、蒸し過ぎたところで肉が硬くなることもないので気が楽だ。調味料も適当で大丈夫。今回は醤油が足りなかったようで塩味が薄かった。でも醤油つけながら食べればそんなもん。
 
蒸したてのスペアリブの骨を手に持ってかぶりついてごらんなさい。たまらん。

母が働いていた頃

母の生存確認も兼ねて、今週の土日に加賀市の実家に行ってきた。
 
日曜日の北國新聞の朝刊に、加賀市大聖寺にある「深田久弥 山の文化館」の銀杏が黄色く色づいているとの記事が載っていた。朝食後にコーヒを飲みながら母はその記事を読み、自分が20代の頃の話を始めた。
 
そもそも「山の文化館」は、かつての加賀市にあった「山長」という織物会社の工場の一部を改修して利用している施設。母はその山長で昭和38年から46年までの8年間、母の年齢でいうと20歳から28歳まで、事務員として働いていたのだ。
 
 
私は昭和41年生まれ、母は私を保育所に通わせながら働いていた。当時は保育所は午後3時くらいまでだったようで、保育所が終わったあとは、近所の人にお金を払って、私を保育所に迎えに行ってもらい午後5時くらいまで預かってもらっていたそうだ。私もおぼろげながら夕方に事務所のストーブの横で母が仕事を終えるのを待っていた記憶がある。母は、昭和46年に弟が生まれたのを機に退職したのだが、本当は自分の親に子供たちの世話を任せてでも働き続けたかったようだ。
 
母は経理の担当だったのだが、お茶汲みやら掃除は当然のこと、来客があれば近所の和菓子屋さんまで、お菓子を買いに行くなどの雑用もやらされていたとのこと。今なら経理担当がなんでそんなことまでやらなきゃいけないのかと問題になるところだが、当時はそれが当たり前だと思っていたそうだ。逆に社長の奥様から、世に中の常識や行儀作法など厳しく躾けてもらってよかったと言っている。
 
そんな雑用の中でも、秋の恒例行事が、銀杏拾いと落ち葉の掃除だったそうだ。事務所の前に樹齢600年以上の銀杏の大木がある。昭和9年に街の大半が消失した大聖寺の大火の時にも工場が延焼しなかったのは、この銀杏の大木のおかげだと、社長さんはこの銀杏の木を大事にしていたそうだ。
 
母のような下っ端は、朝出勤すると銀杏の落ち葉を一枚も残さないように掃除するのが日課。落ち葉掃きを終えて経理の仕事に取り掛かると、掃除したばかりなのに、銀杏の葉がまたハラハラと落ちてくるのが窓越しに見えてげんなりしたそうだ。銀杏の実は、運転手兼任の雑用係の男性が季節になると拾って、近くを流れる大聖寺川の水に浸して果肉を洗い流してから、天日で干していた。食べられるようになった銀杏は、C反で作った袋に入れて、取引先などの会社の関係者にお歳暮がわりに送っていたそうだ。
 
母が働いていた昭和40年代前半は、日本の繊維産業がまだ隆盛を保っていた頃で、会社員として働いていた8年間を母が誇らしく感じているらことは、話を聞いていても伝わってくる。今も当時の会社の先輩とは付き合いがあるそうだ。また、その時に会社で経理の仕事をきっちりと教えてもらったおかげで、退職した後も知り合いの会社の経理事務を内職で請負うことができたとのこと。
 
昭和47年に日米繊維協定が結ばれて、合繊のアメリカへの輸出が制限され、繊維が構造不況業種と呼ばれるようになり、いつ頃なのか、母が働いていた会社も廃業してしまった。

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秋祭り

実家の母親から、秋祭りの赤飯を用意したから取りに来るようにと電話があった。今年はコロナでお祭りの輪踊りや獅子舞など行事は中止なのだが、母は、赤飯と昆布巻きはどうしても準備したいらしい。土曜日の朝9時に部活へ出かける娘を学校まで車で送り届け、そのまま加賀市の実家へ向かう。いつもなら高速道路を使うところだが、今朝は秋晴れ、青空が広がりまことに気分がいいので、加賀産業道路でゆっくり行くことにした。iPadに入っているお気に入りリストの音楽を大音量でかける。子供達と一緒だとあまりに古い音楽をかけるのは遠慮してしまう。妻がいると音量も控えめにと注意される。中島みゆき、The blue harts、井上陽水ちあきなおみエレファントカシマシ、などなど大声で歌いながら運転するのは気分いいものだ。
 
10時ごろに実家に到着。赤飯はすでに届いていたのだが、母はいなり寿司も作りたいので、スーパーへ油揚げを買いに行くので一緒に来るようにとのこと。二人で片山津のスーパー、マルエーへ行く。お稲荷さん用の油揚げを32枚と、いりごま、お供えの大福と月餅、母の朝食用のヨーグルトを買った。
 
実家に戻ると、今度は、弟夫婦が飼っている柴犬を預かっているので、散歩に連れて行けとの指令。弟はどうしたのかと聞くと、ゴルフに行ったとのこと。弟は2年ほど前からゴルフを始めて、最近は毎週のようにコースに出ているらしい。
 
犬を散歩へ連れて行くために、リードをつけようとするのだが、犬が嫌がってつけさせてくれない。母と二人掛かりで犬を抑え込んでようやくリードを装着できた。散歩に行きたいくせにリードを嫌がるとは面倒な犬。
 
海に向かって歩き始めると、早く先に進みたいと、強引にリードを引っ張って走り出そうとするので、その度に思いっきりリードを引き戻して怖い顔をする。2、3回そんなことを繰り返すと、ようやくどちらが偉いかわかったらしく、おとなしく私の横を、私のペースに合わせて歩くようになった。物分りが良くてよろしい。
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海岸沿いの防波堤に沿って歩くために、幅1メートルほどの溝を跨がなければ行けないのだが、この犬、怖がってジャンプして飛び越えようとしない。仕方ないので、遠回りして溝を迂回して防波堤にたどり着く。よほど過保護に育てられたのだろう。何かと手間のかかる犬だ。
 
透き通るような青空にこんもりした雲が規則正しく浮かんでいる。海も穏やか、風は涼しい。ついこの前までの35度を超えるうだるような暑さが嘘のようだ。防波堤の上を500メートルほど、隣町まで歩く。途中で観光で来たと思われる外国人のマウンテンバイクの集団に追い抜かれる。外国人の観光客も戻って来たのだろうか。大きな声で、「こんにちわ。」と挨拶されたので、「こんにちは。」と応える。
 
犬は、家を出るときは我先にと走り出すくらい元気だったのに、30分ほど歩くと疲れてしまったようだ。私の後ろをはぁーlはー息をあげて、なんとかついて来る。普段あまり運動してないようだ。
 
帰り道に、お彼岸なので、集落の墓地へ立ち寄って父の墓参りをした。海から墓地へ向かう道は、あまり歩く人がいないようで、松の倒木が何箇所かあって、倒木を飛び越えるなり、下をくぐるなりしなければ先へ進めなくなっていた。犬も飛び越えられるだろうと、私が倒木を跨いで行こうとすると、立ち止まって後ずさりして、なかなか先へ進めない。仕方ないので犬を抱きかかえて運ばざるを得ない。本当に世話がやける犬だ。
 
墓地には誰もいない。犬と一緒に墓参りして実家に帰る。
 
実家に戻ると母がおいなりさん用の油揚げを炊き上げて、扇風機の風を当てて冷ましていた。犬は普段よりもよほど長く歩いたらしく、冷房の効いた部屋でぐったり横になって昼寝し始めた。
 
お稲荷さんと赤飯、昆布巻きにワラビと油揚げの煮物で簡単に昼ごはんにする。食後30分ほど昼寝をしてから、金沢に戻って来た。
 
帰りも一般道を大声で歌いながら運転した。たまには、一人っきりになって歌いながら運転するのも楽しいもんだ。
 
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