渋江抽斎、堺事件

弘前藩の江戸詰おかかえ医師、渋江抽斎一族の歩みを淡々と時系列に記述していく。抽斎の曽祖父から説き起こして大正5年まで。本人は明治維新の19年前になくなっている。大正5年だと、本人の没後70年。抽斎の息子と娘がまだ生きている。


何年に誰がどうしたという記述が延々と続き正直退屈だが、淡々とした記述のなかに結構ドラマチックな出来事が起こっている。息子が吉原通いに狂って勘当されたり、明治維新で一族が江戸の屋敷を引き払って弘前に引っ越したり。また東京に戻ったり。明治になってからは武士の身分を解かれて、新たな働き口をもとめて、県の官吏になり、学校の先生になり、新聞記者になり。住む場所も浜松と東京を行ったりきたり。娘さんは砂糖屋さんの商売をはじめたかと思うと、縁あって長唄のお師匠さんになる。とにかくめまぐるしい。時代が変わってみんな自分の居場所を見つけるために蠢いている。


大正5年から70年前を振り返ると言うのは、現在から70年前だと昭和の10年代。本人と直に接した人がまだ生きている。鴎外は江戸の頃の殉死、切腹、自己犠牲っていったいナンだったんだろう、ついこの前まで当たり前だった考え、習慣がなんでなくなったんだろうと思いつつ書いていたんだろうなと思った。


更に強烈なのは「堺事件」。幕末に堺に上陸したフランス軍と堺を警備していた土佐藩の藩士が小競り合いをおこして、フランス軍に死者がでてしまう。対外的な力関係もあって、幕府は賠償金の支払いと土佐藩藩士29人のうち20人を切腹させることをフランスに約束する。切腹する20人はくじ引きで決めて、フランスの責任者立会いのもと、一人ずつ切腹が始まる。藩士にとっては如何に立派に切腹できるかが関心の的。腹に刀を突き立てて掻っ捌いて中身を自分で引っ張り出して、云々。あまりの凄惨な光景にフランスの責任者は席をたち、切腹は中断、結局途中で中止になってしまう。


鴎外にとっては、たった50年前の失われてしまったメンタリティを掘り起こしてみたのでしょうか。

渋江抽斎 (岩波文庫)

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大塩平八郎・堺事件 (岩波文庫)

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