魂を考える

池田晶子さんが雑誌「季刊仏教」に連載した記事をまとめた本です。「私」、「意識」を「魂」という言葉で考えていきます。

本来、便利さとは、それによって節約された時間や手間を、よりよい目的のために使うことができるからこそ、価値であったはずである。よりよい目的とは何か。決まっている。よい人生を生きることである。人生の意味と無意味を、自ら納得して生きる人生のことである。
 便利さによって節約された時間を、人はどのように使っているだろうか。おそらく、することのない時間の空疎、すなわち自分自身の中身の空疎に耐えられず、人はさらにビジネスへと走っているのではなかろうか。そして、忙しい忙しいと自分に言い訳しつつ、さらなる便利さを求めているのではなかろうか。すると、人は、いったい何のために何をしていることになるのか、これは見事な本末転倒である。

節約された時間を何につかってるのか? 私は、ぼぉっとテレビ見てるか、ネットを徘徊してます。仕事でパソコンの画面を眺めていることが多いのに加えて、iphoneでいつでもネットに繋がるようになってからは、四六時中、画面から何かを読んでいます。だらだらと音楽を聴くこともあります。いつも心がざわついていると感じます。
音楽なし、画面なしの静かな部屋で、雑巾を縫ったり、洗濯物たたんだり、栗の皮をむいたりすると落ち着きます。


一番最後に、池田晶子養老孟司木村敏の対談があり、その中で離人症の話がでてきます。離人症とは、視覚や聴覚、触覚など五感には全く障害がないのにもかかわらず、何かピンと来ない、現実感がない、茂木健一郎風に言えば、クオリアが感じられない症状だそうです。景色を見ても現実感がなく絵葉書のように感じたり、時間の感覚までなくなるそうです。見るもの聞くものから全ての意味が脱落してしまうような感覚だといいます。心ここにあらず、魂がぬけてしまった状態とでもいうのでしょうか。
自分が自分であるという意識は何なのだろう、どこからくるんだろうか?今は、それほど切実に感じることはなくなってしまいましたが、時々は、子供のころに感じたそんな感覚を思い返したい。

魂を考える

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