原始仏典

仏教の古いお経、釈尊自身が語った言葉に近いと考えられるパーリ語の古典を現代語訳したもの中から、重要なものをかいつまんで解説してくれます。著者の中村元さんは、多数の仏典を原典から邦訳しています。岩波文庫の「ブッダのことば」や「真理のことば、感興のことば」なども中村さんの翻訳です。わかりやすい言葉で誰がよんでもわかる日本語で書いてあります。


釈尊はそもそも、普通の人々が心安らかに暮らすにはどうしたらよいか、という問いに答えるために教えを説いているのであって、仏教は、大変実践的な教えだと著者はいいます。

たとえば、宇宙とは無限に広がっているものか、あるいは有限なものか。宇宙は永遠に続くものか、そうでないか。また身体と霊魂は同一のものであるか、別のものであるか等々、異なった意見が当時、論じられていました。これらの事柄については、今日でさえもさまざまに論議されていることなので、当時の人々が決定するだけの知識をもっていなかったのは当然のことです。そういうことを論議していては、人間が今ここにいかに生きるべきであるか、ということについては何の解決ももたらしてはくれません。


だから釈尊は論議してもしかたのないことについては、語るなといいます。そのことを表現するのに仏教には「毒矢のたとえ」のお話があります。

道を歩いていると、人が毒矢に当たって苦しんでいる。ああ、たいへんだと思ったその人は、苦しんでいる人に向かって、「あなたに矢を射た人はどんな人ですか。背は高いか低いか、男か女か、色が白かったか、黒かったか、バラモンか奴隷階級に属する人か」などいろんなことをきくのですが、なかなかわからないわけです。そんなことをきいているうちに、その男の人は毒が体中に回って死んでしまいます。
 それと同様に、解決できないような哲学的議論にまきこまれたりせずに、ここに生きている人が、いかに生きるべきか、その生きる道を明らかにするということを釈尊は人々に教えたのです。


ということで、短いことばのひとつひとつが心に響いてきます。いくつか抜書きします。

過去を追わざれ。未来を願わざれ。およそ過ぎ去ったものは、すでに捨てられたのである。また未来はまだ到達していない。そうしてただ現在のことがらを、各々の処においてよく観察し、揺らぐことなく、また動ずることなかれ。
 誰が明日に死のあるのを知ろう。ただ今日まさに為すべきことを熱心になせ。


愚かな者は生涯賢者につかえても、真理を知ることが無い。匙が汁の味を知ることができないように。


無益な語句を千たびかたるよりも、聞いて心の静まる有益な語句を一つ聞くほうがすぐれている。


たとえ貨幣の雨を降らすとも、欲望の満足されることはない。「快楽の味は短くて苦痛である」と知るのが賢者である。


自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか? 自己をよくととのえたならば、得がたき主を得る。


原始仏典 (ちくま学芸文庫)

原始仏典 (ちくま学芸文庫)