歴史が後ずさりするとき 熱い戦争とメディア

 イタリア人の記号論の学者にして小説家でもあるウンベルト・エーコ。小説では「薔薇の名前」が有名。

 

この本は、2000年から2005年に書かれた評論やエッセイです。9.11のテロ、アメリカのアフガニスタンイラクへの侵攻について何度も書いています。その中で戦争の形が変わってきているということを次の3つの分類を示して説明します。

  1. 旧来型戦争は、対立する当事者二者間の一時的な不均衡を生んでいたが、中立的な立場をとる人々の周辺にはそこそこの均衡状態を残していた。
  2. 冷戦は、第一世界と第二世界の中心に、凍結状態の、強制的な均衡をつくりだしたが、その代償として、数々の旧来型戦争に悩まされる周辺全てに数多くの不均衡をもたらした。
  3. 第3段階のネオ戦争は、日常的な不安と終わりなきテロの領域と化した中心部に永続的な不均衡を約束し、その抑制のために、周辺に数知れない旧来型戦争が起こり、とどまることのない出血となった。アフガニスタンはその第一例に過ぎない。

旧来型戦争は、戦場となるのは戦争当事者の間だけ、それ以外の国は安定していた。冷戦は、アメリカとソ連の直接の戦争はないが、周辺国での代理戦争が起こる。ネオ戦争は、冷戦構造が崩れ主要国の国内でテロが頻発するとともに、テロ抑止の名目で周辺国での戦争が続発する。

 

段階が進むにつれて、戦場が拡散していき日々の生活の中での不安が高まっている、歴史が後ずさりしているといいます。

 

移民についても何度も触れています。学校でイスラム教の生徒だけで別のクラスを作ってほしいとの要望が、イスラム系の親から出されたことについての考察が面白かった。お互いの理解のためには、イスラム教の生徒もキリスト教の生徒も同じクラスで机を並べて勉強することが理想であり、宗教でクラスを分けるべきでない。しかしながら、イスラム系の親が、他の生徒からのイジメが激しくてこれ以上学校に通わせられないというのであれば、イスラム教の生徒のクラスを別に作るというのも次善の策としてあり得る。イスラム系の生徒が学校に来なくなったり、イスラム教の別の学校を作るよりは、クラスは違っても同じ学校にいる方が、お互いの交流が生まれる可能性があるからです。

 

戦争についても移民についても、どこか遠くのことではなく目の前の問題として今どうするかということを考察しているところが、日本とは違うなと感じました。

歴史が後ずさりするとき――熱い戦争とメディア

歴史が後ずさりするとき――熱い戦争とメディア