中動態の世界 意志と責任の考古学

現在の英語であれ日本語であれ、文法上は「私は〜する。」の能動態と「私は〜される。」の受動態の2つに分けて考える。しかし、はるか昔には、の能動態に対応するものとして中動態という形式があったそうだ。

 

能動態と受動態というのは、「私は意志を持って何かをなす。」のか。、「何者かによって私は何かをされるのか。」に分けて考える。それに対して、能動態と中動態の世界では、能動態は、私は何者がに対して何事かをなす。中動態は、「私はこういう姿勢・状態である」ことを示す。私は正気を失っている。驚いている。どうにかしている。歩いている。自然に、自発的に〜している。など自分の意志からの行動かどうかは横に置いといて、こういう状態だということを示すのだ。

 

著者はこの失われた中動態という枠組みをもとに、行動に先立つ意志って何なのかを考える。今の世の中、行動主体の意志とか責任を確定したがるけれど、意志ってそんなに意味があるの? 自分がやろうと思った訳でもないし、他人に強制された訳でもないけれど、行きがかり上そうなった、自然とそうなっちゃった、という状態もあるんじゃないかと考える。

 

人が何事かをなすにあたっては、過去の経緯やら他人の影響も大きいはず。能動と受動に分けてしまうと100%自分の意志か他人からの強制かの枠組みでしか考えられなくなってしまう。行動の原因となるのは、意志だけでなく、過去からの因果、他からの影響もあるでしょと著者は言います。

 

中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)