執念深い貧乏性

 栗原康さんの本には中毒性がある。粗野でガサツな言い回しで、一見何ら関係のない体験談、例えば実家で飼っていた猫がおじいさんに捨てられたけれど、3日ほどで戻ってきた話、長渕剛の「Captain of the ship」歌詞の引用が続いて、安心していると話が急展開してズバッと核心を突かれて驚く。それが面白くて、次の章、次の章と読み進めた。

 

国家、会社、家族、夫婦、これらの制度は全て、誰かを奴隷として支配して、死ぬほど働かせて、富を収奪するための仕組みだ。と著者はいう。人と人との間に敷居を設定して区分けして支配するための制度なのだから、支配者と話し合って改善すれば、良い国家、良い会社、良い家族、良い夫婦になるなんてことはありえないのだ。また、支配されている側が、権力を握って支配する側にまわったところで、支配者が変わるだけで、死ぬほど誰かを働かせて、おいしいところを持っていくという構造は変わらないのだ。それは、プロレタリア独裁ソ連で何が起こったかを見れば明らかだ。

 

では、アナキストである著者はどうすればいいと言っているのか。本の帯に「自分の人生を爆破せよ。」とあるように、国家や家族など支配のための敷居をぶっ壊してしまえ、そんな支配の仕組みを当然のものとして受け入れている自分もぶっ壊してしまえ。そして、逃げて逃げて逃げまくれと言う。真正面から戦うのでなく、土俵自体をぶっ壊してしまえ。国家とか経済とかの力がおよばない暮らしはいくらでもできると言う。

 

国家が奴隷を強制的に働かせて、単一の穀物を大量に作らせて収奪する仕組みで合ったこと、そんな国家から逃れた人々が、国家の側から、いわゆる「少数民族」と位置付けられて差別されてきたことは、ジェームズ・C・スコットの「ゾミア」を引用しながら説明している。

 

本書には登場しないが、国家が奴隷制を前提として成立したことは「半穀物の人類史」にも詳しい。奴隷を大量に一箇所に集めて、単一の穀物を大量生産させることによって、不衛生な生活環境による疫病の発生、農作物への病害虫の発生、山賊による収奪を招き寄せることになったのだ。国家が成立することよって庶民の生活が豊かになっていない。かえって貧しく、栄養状態も悪くなっているのだ。

 

また、国家が安穏と存続している期間は、人々の格差、不平等は拡大していくばかり、戦争や革命、疫病の大流行によって国家の根底が崩壊したときくらいしか、格差が解消される方向には動かないのだ。このことは、(「暴力と不平等の人類史:戦争・革命・崩壊・疫病」)

 

この前の戦争に負けて、国がひっくり返ってから75年。政治も経済も敗戦後にできた仕組みがそのまま受け継がれて、そんな仕組みが生活のあらゆる側面に影響を拡げている。ああ、息苦しい。特に、政治は75年間積み重ねられてきた既得権益のしがらみにがんじがらめで、どうにもならない。

 

本書のから、印象的だった部分を引用する。

未来のために、今を犠牲にするのはもうやめよう。時間奴隷はもうたくさんだ。というか、そうやって人を奴隷にするやつやが支配者なんだ。

 

革命とは敷居を除去しようとする集合的運動だ。

 

はじめからやっちゃいけないことなんてない、いっちゃいけないことなんかない、自由だ。ひとはなんどもできる、なんにだってなれる。

 

そんでもって、この合理性の過剰こそが連続殺人をよびおこしたのだ。こういっておこうか、経済は尺度のポリスである。市民ポリスはファシストだ。警察ぶったブタやろう!

執念深い貧乏性

執念深い貧乏性

  • 作者:康, 栗原
  • 発売日: 2019/04/25
  • メディア: 単行本
 

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