開高健 電子全集1 漂えど沈まずー闇三部作ー

岩波文庫の「開高健短篇選」が面白かったので、開高健をまとめて読んでみようと、電子書籍でまずは「闇三部作」を購入した。
 
闇三部作とは、1968年に発表された「輝ける闇」、1972年「夏の闇」、没後の1990年に未完のまま発表された「花終わる闇」のこと。
 
「輝ける闇」は1964年に朝日新聞の臨時特派員として戦時下に取材したベトナムでの体験を元にしている。200人の部隊のうち生き残ったのが17人という激しい戦闘の体験が物語の中心になっている。当たり前だが、相当強烈な体験だったらしく、この戦闘については「夏の闇」、「花終わる闇」でも繰り返し描写されている。
 
「夏の闇」は、ベトナムから戻って数年後、主人公は、パリと思しき町の場末のアパートに引きこもっている。そこに旧知の女性を呼び出して、一緒に滞在する。何するわけでもなく、ご飯食べて、酒飲んで、寝て、街をうろつく。その後、女性が住むドイツの町の、お屋敷街にある近代的な小綺麗なアパートに移動すして、そこでも二人で部屋に引きこもる。女性は昼間は大学に通うために外出するのだが、主人公はひたすら女性の部屋で、酒飲んでご飯食べて昼寝して、女性が帰ってきたら、ひたすらいちゃついている。
 
二人は部屋では裸で過ごす。部屋で過ごす様子にこんな描写がある。
 
厭味とも誇りともつかない笑いを頰にうかべ、ブラジャーやGパンをぬぎすてる。たわわな全裸になり、首からエプロンをさげる。ポパイやミッキー・マウスドナルド・ダックのアップリケを縫いつけた、幼稚園の先生がしそうなエプロンである。
 
これが、裸エプロンが日本で最初に活字になった文章なのではないか。知らんけど。そんなだらけた生活の描写が呆れるほど細かい。特に、あの場面の描写がリアルに過ぎる。匂い、臭いが伝わってくる。リアルに過ぎて読んでいてげんなりするが、不思議と流れに身をまかせて続けて読んでしまう。
 
二人は、その後、高原の湖に滞在して釣りをして過ごし、当時の西ベルリンのホテルにも滞在する。主人公は釣りをしている間だけは活気に溢れるが、あとはひたすらぐうたらと過ごす。ベルリン滞在中に新聞で見つけたベトナム戦争の記事に主人公が反応する。もうすぐ戦闘が激しくなるとの情報をみて、居ても立っても居られなくなる。通信社の支局をまわって情報蒐集して、ベトナムへ旅立つ決意をするところで物語が終わる。
 
「花終わる闇」は未完の作。着手したが、なかなか書けなかったようだ。「輝ける闇」と「夏の闇」の焼き直し、ネタバラシの感じがする。
 
 
開高健は1930年生まれ。敗戦を14歳で体験している。父親を1943年に亡くしたため、敗戦後の食糧不足は、それこそ食うや食わずの大変な思いをしたそうだ。弁当を持っていけずに、昼休みになると水をがぶ飲みして、ベルトをぎゅっと締めて空腹を紛らわしたそうだ。
戦争が終わった後に、学校が再開されたけれど、校舎は直前まで、召集されて戦地に送られる兵士たちの一時滞在場所として使われていたため、荒れ放題で、特にトイレは処理能力を超える人数が滞在したために、糞尿が溢れて大変なことになっていたそうだ。階段の踊り場なども糞尿まみれで、校舎の掃除と回収に半年かかったとある。すぐ上の世代が、そうやって戦争に駆り出さ、次は自分と思っていたのに、世の中がひっくり返ったのだ。
 
 
ツイッター開高健井伏鱒二の対談の映像を見つけた。開高が井伏に、「私は今、52歳なんですが、戦争が終わった時に井伏先生は52歳、その頃はさぞかし楽しかったでしょう。私はそれがなかった、ひっくり返ったところから始まっている。この先どうしたらいいでしょうか。」と相談している。
 

 

 
二人のこのやり取り、よくわからないところがある。年長の井伏は大人になって敗戦を迎えて羨ましいと開高は言っているのだが、どういう意味なんだろう。敗戦を14歳で体験した自分は不幸だということなのだろうが、その感覚がしっくりわからない。もう少し先に生まれていたのなら、兵士として戦争を体験できたのに、できなかったのが残念ということなのか、それとも、世の中がひっくり返る激動の時代を大人として余裕を持って経験したかったということなのか。
 
ここまで考えて、一つ思いつくのは、中学生の時に体験した世の中の常識が、その後のその人にとっての判断の基準になるのではと思う。中学生の時の感覚にずっとひきづられるんじゃないだろうか。彼がベトナムに何度も通ったのは、彼の兄の世代が戦争に行ったのに自分は行かなかったという、喪失感のようなものがあったのではと思うのだが、その辺はよくわからない。
 
さらにいろんな著書を読んで探ってみたい。

 

開高 健 電子全集1 漂えど沈まず―闇三部作

開高 健 電子全集1 漂えど沈まず―闇三部作