日本流 なぜカナリヤは歌を忘れたか
「一途で多様な日本」のあれこれを紹介する本です。
日本語の話、職人の話、中世ネットワーカーの話、着物の話、祭りの話、遊びの話、あるいは、鈴木三重吉、三木露風、佐野藤右衛門、イサム・ノグチ、泉鏡花、湯川秀樹、山片ばん桃、中川幸夫、オギュスタン・ベルク、永井荷風、狩野亮吉、九鬼周造などを覗きつつ、「見立て」や「数寄」や「ウツ」や「スサビ」や「ワビ」や「アワセ」の億にある方法を採り出す話
お茶の世界はそこいら中に「見立て」が登場する。茶釜の湯がしゅんしゅんと沸く音を松林を風が吹き抜ける音に見立てて松風といってみたり、赤いういろうのようなお菓子を「初鰹」と名付けて初夏に使ってみたり。庭はそれこそ見立てで成り立っている。ある物に寄せてそこにないものを想像する。そのためには、共通して知っ手置くべき知識(コード)がたくさんある。それが煩わしいといえばその通りだが、コードを駆使して趣向を凝らすのが面白いのだと思う。
著者は日本流を成り立たせてきたコードがどんどん失われていくのを嘆きつつ、形を替えて生き残っていることも指摘する。その一例として「かなりや」を始めとする、子供が歌うにしては悲しすぎる風情がいっぱいの童謡を挙げる。
唄を忘れた金糸雀は
後ろの山に棄てましょか
いえ いえ それは なりませぬ唄を忘れた金糸雀は
背戸の小藪に埋けましょか
いえ いえ それはなりませぬ唄を忘れた金糸雀は
柳の鞭でぶちましょか
いえ いえ そればかわいそう
寂しい風情を愛でる気持ち「スサビ」、「サビ」に惹かれます。西洋にも廃墟趣味はあるので日本独自のものなのかどうかはわかりませんが。
ふるさとも妻も子もなしわが骨は 犬のくわえて行くにまかせん

- 作者: 松岡正剛
- 出版社/メーカー: 朝日新聞社
- 発売日: 2000/02
- メディア: 単行本
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