意識は傍観者である 脳の知られざる営み
日々の行動の中で、意識が果たしている役割っていうのは、ものすごく小さいですよというお話。
前半には、意識がアクセスすることができない(無意識な)脳の働きが日々の生活のほとんどを取り仕切っている事例がたくさん出てきます。
- 初めて車の運転を学ぶときは、ブレーキはアクセルの踏み具合やハンドルの切り方など意識して考えないといけなが、慣れてしまえば意識することなくほぼ自動的にこなしている。
- 慣れ親しんだ通勤経路ではほぼ無意識のうちにすぎていくので、途中に何があったかほとんど覚えていない。
- そもそも我々の感覚自体が、無意識の脳の働きにより解釈された外界の様子を与えられているにすぎない。見るということは、網膜に映った光を感じるだけでは見たことにならない。脳による無意識のうちになされる解釈の結果を見ている。
- 被験者に「好きなときに腕を上げてください。」とお願いすると、被験者が腕を上げようと意識する1秒前には、脳の電位に変化が現れる。
- 野球で150キロで飛んでくるボールを打ち返すのは、意識していてはできない。
では何のために意識があるのか。著者は脳の働きを会社組織に例えます。歩く、視る、聞く、などを無意識が司る脳の働きを、会社の個別の部門に例え、意識は社長であるといいます。会社の日常の運営がうまくいっているうちは、それぞれの部署でこなしているので、社長に報告があがることはありません。何か非常事態がおこったときにだけ、社長(意識)に報告があがります。意識は非常事態への対応と、部門間で対立があった場合の調整です。
後半は、人間の行動を決める上で意識が果たす役割が小さいとすると、犯罪者の責任能力をどのように考えるべきかという議論へ進みます。人の意識は、無意識に左右され、その無意識は脳のありようで簡単に変化する。いままで、犯人が悪意をもってやっているとされていたことが、脳の状態が通常とは違っている、病気のためだと判定されることが医学の進歩による増えてくるのではないか。犯罪者を心身喪失状態であったから無罪、意識してやったから有罪という分け方はあまり意味がない。更正の可能性、どれだけ治療や訓練すれば社会生活に戻すことができるかで対応を考えるべきだといいます。
私の意志でやっていると思っていることも、無意識が取り仕切った結果を追認しているだけ、すべては決められているのかもしれないと思うと、なんとも居心地が悪い気分になります。
意識は傍観者である: 脳の知られざる営み (ハヤカワ・ポピュラーサイエンス)
- 作者: デイヴィッド・イーグルマン,大田 直子
- 出版社/メーカー: 早川書房
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