大森荘蔵 哲学の見本
ものがそこに見える、例えばテーブルの上にティーカップが見えるとはどういうことなのか。網膜に像を結ぶだけではティーカップだとは見えないのではないか。
ものの実体があって、それを心(脳)で認識しているのか。
自我とは何か。ほかの人は、自分と同じように自我を持っているのか。
過去とは何か。時間とは何か。見ることと言葉の関係
このような問いを、哲学者 大森荘蔵はどのように考えてきたのか、これについて、大森の弟子であった野矢茂樹が解説する。ものを見るということだけについても、大森の思想は前期、中期、後期で大きく変わっていく。大森がどう考えて、どのように変わっていったかを、大森の著書を読んだことがない私にもわかりやすく解説する。レンガを積み上げるように一歩一歩積み上げていく過程、積みなおす過程がわかって面白い。
ここで、私が下手な解説をしたところで、ややこしくなるだけなので本の内容には触れない。誰もが一度は気になって少し考えてみるけれど、日々の暮らしにまぎれて忘れさってしまうことを、コツコツと何十年も考え続ける哲学者のしぶとさはすごい。
野矢茂樹があとがきで、
私が大森先生から学んだことというのは、こう言ってしまうとあまりありがたみがかんじられなくなってしまう恐れがあるが、つまるところ、「自分で何を言っているのか分からないことは喋るな」ということであったと言えるだろう。そして、哲学においてこのことを実践するのは、本当に難しいことなのである。
自分で考えて腑に落ちたことだけを、自分の言葉で丁寧に説明していく。かっこいい。