走ることについて語るときに僕の語ること

長距離を走るひとなら、「そうそう」と思えるようなことがたくさん書いてあります。今まで走ることについて漠然と感じていたことを、具体的に表現してもらったような気がします。

走り続けるための理由はほんの少ししかないけれど、走るのを止めるための理由なら大型トラックいっぱいぶんはあるからだ。僕らにできるのは、その「ほんの少しの理由」をひとつひとつ大事に磨き続けることだけだ。暇をみつけては、せっせとくまなく磨き続けること。

最近、割とまじめに走っています。ほぼ毎日、朝起きて1時間走るようにしています。私が走る「ほんの少しの理由」は、ひとりでぼんやりと考え事する時間をもつため。一日のスタートに体を動かすと、積極的な気持ちで行動できるから。

年を取るにつれて、様々な試行錯誤を経て、拾うべきものは拾い、捨てるべきものは捨て、「欠点や欠陥は数え上げればキリがない。でも良いところも少しはあるはずだし、手持ちのものだけでなんとかしのいでいくしかあるまい。」という認識(諦観)にいたることになる。

年をとれば負けることも多くなる。勝ち負けを別にして手持ちの体で少しでも良く走れるようになるのも、いいものだと、最近少し思えるようになってきました。

だからこそ「あんなのは芸術家じゃない」と言われても、ぼくは走り続ける。

もう15年以上前になるでしょうか、ある作家が、「クリエイティブな仕事をしている人間が、黙々とマラソンを走るなんてありえない。あんなのは芸術家じゃない。」というようなことをテレビで言ってたのを思い出しました。私が走ることが好きだったので、結構ショックを受けて今でも覚えています。人間の「毒」と格闘するのが芸術家の仕事なので、芸術家は健康的な生活を送って体力を維持しないと、毒に負けてやつれてしまい、長く創作活動はできない。だから走リ続けるとの趣旨です。


走ることについて語るときに僕の語ること

走ることについて語るときに僕の語ること