語る禅僧

南直哉さんが「出家の由来」を語る部分と、「禅僧の言葉」を解説する部分、アメリカの禅寺の滞在記の3部構成です。出家の由来は重たいお話。アメリカ安居体験記は、南さんには珍しく気楽に楽しく読める内容です。ナタリーゴールドバーグの「魂の文章術」に登場する片桐老師のところに南さんが滞在していたようです。


子供の頃に、この世界の底の危うさを感じた時の恐れを生々しく描写する部分。

お母さんが、もうアンタのお母さんはやーめた!と言ったら、ボクはどうすればいいのか?お母さんがやめると言うのを、どうやって止めるのか?
ひょっとしたら、お母さんがお母さんであるのは、誰が決めたのか知らないが、ただの約束で、お母さんはそれを守っているだけなのではないか?
だったら、お父さんだって、学校の先生だって、友達だって、全部そうなのではないか?
ここまで考えたとき、突如として目の前の見慣れた景色が一変した。
夕焼けでオレンジ色に縁取られた近所の家並みや庭木、路地や野菜畑、歩いてくる老人、隣家の飼い犬が、急に鉛のごとき金属質のものでできているように鈍く光ってみたこともない風景になっている。空気が急に濃くなって、喘息の発作が起きる直前のような不安が胸のあたりを冷やしていく。まるでこの世界から外に括りだされて、ガラス越しに眺めているようだった。


小学校低学年くらいの頃って、いろんなことを心配していたようなきがする。親がいなくなったらどうしようとか、戦争が始まったらどうしようとか。
小学1年から剣道を習ってました。土曜日は友達が近所の公園で遊んでいるときでも、自分だけ剣道教室にいかなければならなかったので、いやでいやで仕方ありませんでした。送ってもらう車の中で「いやだ、いやだ」と思いながら外の景色を眺めていたときに、いやだ、いやだと思っている自分が見る景色と、他の人が見る景色って同じなんだろうか。他の人にとってもこの景色は同じように見えているんだろうか。他の人も意識ってあるのかしら。実は全く違う見え方、意識をもっているのではないか、他の人は人間じゃないかもしれない。と考え出したら、その考えか離れられなくなってしまったことがありました。


死への恐れと興味、既視感、意識、子供の頃は、いろんなことにドキドキしていた事を思い出しました。
日常生活の中の禅:http://d.hatena.ne.jp/benton/20100921/p2
「正法眼蔵」を読む:http://d.hatena.ne.jp/benton/20101010/p2

語る禅僧 (ちくま文庫)

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