失われた手仕事の思想

この本に登場する職人さんを、目次に沿って紹介すると、

鍬や包丁を作る野鍛冶、〓屋根を葺く屋根屋、柳行李をつくる杞柳細工師、静岡県掛川の葛布織り、対馬の手作り釣り針、鹿児島の箕作り、炭焼き師、岐阜の木挽、山形県関川のシナ布、宮崎県の竹細工師、秋田のイタヤ細工師、船大工、大阪の櫓、櫂職人、石を積む石工。


昭和30年代までは、あたりまえに営まれていた仕事がどんどん消えていく。どの仕事も私ならかろうじてわかるが、多分息子に言ってもイメージがわかない仕事がたくさんあると思う。たった一世代消えてなくなってしまった仕事がたくさんある。


著者は、手仕事がなくなるときは少しずつではなく、ある時点で一気になくなると言う。手仕事はそれぞれがお互いに密接に結びついているので、どれか一つがなくなっても、材料が手に入らない、とか、道具が手に入らない事態となる。繋がっている例として、「アケビ細工と炭焼きと酪農家」を挙げている。アケビ細工師が蔓を採集するさいの一番の敵はクズ。クズがアケビの成長を妨げるのだ。昔はクズが牛のいい飼料となったので、酪農家にアケビ細工しは助けられていた。また、山に入り込んだ炭焼きが炭を運び出すために作った道を、アケビ取りが使っていたそうだ。


それと手仕事のサイクルが四季のサイクルにしっかりとリンクしていたという。葛布であれば刈り取りは葛が一番活発に水を吸い上げている初夏に限る。そうでないと上手く皮をむくことができないそうだ。秋までに糸をつくって、外に出られない冬の間に織る。そして何よりも、丈夫で、自分に合わて作られた品物を、大事に使うお客さんがいなくなれば、どうにもならない。


手仕事がなくなるからといって、なくなりそうな手仕事だけを抜き出して残そうとしても、多分それは別のものになってしまうのだろう。手仕事をささえていた社会環境から切り離されて博物館に保存された展示品のように。工芸品と称してちょっとしゃれた小物だけが残ってもなんだか、しらじらしく、少しいびつな感じがする。

失われた手仕事の思想

失われた手仕事の思想