読書について

本を読んで、RSSで沢山のブログを読んで、外に出ているときもiPhoneでweb見て、メール読んで・・・。最近朝から晩まで、四六時中活字を目で追っているような気がする。見境なく活字を読んで1日を過ごし、夜には疲れ果てていることがある。

読書とは他人にものを考えてもらうことである。1日を多読に費やす勤勉な人間はしだいに自分で物を考える力を失ってゆく。

このフレーズに惹かれて、「読書について」を読んでみた。(また読んでるし。)


19世紀に生きたショウペンハウエルは嘆いている。次々に出版される本は、金儲けを目的に書き散らかされた悪書ばかり、新聞にもろくな記事はない。こんなもの読んでいたら馬鹿になる。と。

凡庸低俗な頭にも気がねせず、金だけをめあてに書きなぐる作家、言い換えれば、いつでもそのへんに掃き捨てるほどいる作家の新刊ものを、しょっちゅう彼らは読まなければならないと思っているのである。そのかわり、史上に残る稀有の天才の作品は、ただ名前だけを知っていおけばよいとしている始末である。特に通俗的日刊新聞とはよくも思いついたものである。それは、趣味のよい読者から、真の文学作品にあてるべき時間を強奪する巧妙な手段であり、その強奪した時間を凡庸作家の日々の駄作に対する供物にしようとしている。

確かに古典と呼ばれるものは、名前は知っているけれど読んだことないものは多い。名前だけ知っていて、読んだ気になっているもの、多数あり。夏目漱石とか鴎外は、作品をまともに読んだことなかった。新聞、幾多の新刊本に加えて、膨大なウエブ上のコンテンツにまで目配りしていたら、何が何だかわからなくなるのも当然。

悪書を読まなさすぎるということもなく、良書を読みすぎるということもない。悪書は精神の毒薬であり、精神に破滅をもたらす。
良書を読むための条件は、悪書を読まぬことである。人生は短く、時間と力には限りがあるからである。

これから秋に向け、心落ち着けて古典と呼ばれるものをじっくりと読んでみたい。一度読んだ本を再読するのもいい。

読書について 他二篇 (岩波文庫)

読書について 他二篇 (岩波文庫)