円仁(えんにん) 唐代中国への旅 「入唐求法巡礼行記」の研究

中国の歴史6 で参考文献として紹介されていたので読んでみた。
 
天台宗の僧、円仁(後の慈覚大師)は、838年に最後の遣唐使として日本を出発する。密教の聖地である天台山を参拝し最新の密教を学んで2年程度で帰国する予定だったが、実際に戻ったの847年。最初、揚州に上陸したものの、目的の天台山に行くことは許されず、長安で皇帝に拝謁した大使一行と同じ船にのって日本に帰らされそうになる。帰りの船が山東半島に差し掛かったところで、船から抜け出して、地元の朝鮮系の寺院に紛れ込む。彼らの協力を得てなんとか、五台山をへて長安に行く通行証を発行してもらい、徒歩で出発する。長安に4年滞在し、サンスクリット語や最新の密教を学ぶも、唐の廃仏毀釈の嵐が吹き荒れる。外国の僧は還俗して国外追放となり、再び揚州へと旅をする。日本へ帰る船を待つこと2年。最初に上陸したときにお世話になった朝鮮人たちが唐のお役人とのややこしい交渉を引き受けてくれ、経済的にも支援してくれたおかげで、日本行きの船に便乗して、朝鮮半島の西海岸、済州島対馬経由で日本に戻る。その間、円仁行った先の地名、何があったか、誰とあったか、どんなことを聞いたかなど、詳細な記録を日記として残した。
 
この本は、日本文化の研究者で、駐日アメリカ大使でもあったライシャワー博士が、円仁の日記をもとに、年代記など当時の他の資料で補足しながら、円仁の足跡をたどる。ライシャワー博士は、この当時、自分の見たこと、聞いたことをそのまま記録に残している唯一無二の旅行記であり、マルコポーロの東方見聞録よりも4世紀も前に生き生きとした庶民の生活を記録した旅行記は他にないという。しかも、円仁は中国文化についてある程度予備知識を持って訪問し、言葉も理解できるので当時の中国の政治や宗教の情勢をちゃんと理解している。と、導入部分で円仁の「入唐求法巡礼行記」はすごいと褒めまくる。
 
確かに、政府が作成する年代記などの公式文書には、出来事の正確な日付はわかるかもしれないが政治的に重要なことしか書いてない。
 
円仁一行が揚州の運河を小舟を連ねて牛に引かせて進んでいると、たくさんの鵞鳥の集団が通り過ぎていくとか、提灯を掲げて爆竹を打ち鳴らす年末の様子など、こんな記録は唐であれ日本であれ公式文書にはない。円仁は几帳面な人だったらしく、日付と地名はほぼ正確に記載しているので、旅程を現在の地名に当てはめて再現できるのだ。
 
ライシャワー博士は、ほぼ全編「入唐求法巡礼行記」を推しまくる。旅行記好きとしては、原本を読まないわけに行かない。古本で中公文庫の「入唐求法巡礼行記」を購入。届くのが楽しみ。