意識と仏教の話

「右手か左手どちらかの手をあげてください。」と言われた人が、心の中でどちらの手をあげるかを決断して、手をあげるまでの脳の活動を脳磁計でみると、その人が決断するよりも、何秒か前にすでに脳は本人が意識することなく、どちらの手をあげるか決めているそうだ。だから、脳磁計を見ると本人が決断する前に、どちらの手をあげるかがわかるそうだ。意識が決めているのではなく、脳のどこかで無意識のうちに決まっているのだ。意識は単にその結果を知らされて、意識が決めたと思い込まされているだけなのだ。
 
では、決めたのは誰なのか。何なのか。それは脳の癖のようなもの。その場での外界からの刺激、過去の記憶から刺激を脳が受け取り、脳が自動的に反応するのだそうだ。言い換えると脳の癖のようなものに左右される。
 
日々の行動の中でかなりの部分がこのような、刺激と記憶に対する脳の反応の癖によって左右されている。自分の意思や意識よりも、癖や習慣で行動が決まる割合が多いのだ。ということは、行動を変えたい時に、あまり自分の気持ちとか意思、高い意識に頼るのは得策ではないということだ。意識で行動を押さえ込もうとしても、無意識の脳の反応の癖に負けるのだ。
 
ここで、突然仏教の話になるが、仏教でいう「縁起」というのが、この脳の反応の癖のようなものだと思う。現時点での外界からの刺激と過去の記憶、習慣が合わさったものへの機械的な反応だ。今この瞬間の行動は、自分の意識が決めるのではなく、今この瞬間の状況+過去の積み重ねによって決まる。
 
ということは、今この瞬間の行動=反応の仕方を変えたければ、まずは外界からの入力を変える。つまり環境を変えるべきなのだ。環境を変えて行動を少しずつ変える。行動が少し変わることにより、次の瞬間には過去の記憶も少し変わる。そうやって少しずつ変える。
 
もう一つの方法は、脳が勝手に反応していることを自覚して、その反応の瞬間に気づいていること。お腹が空いて、無意識にお菓子を食べる。気が付いたらポテトチップスを一袋食べきってしまう。そんな時は、お腹が空いていることを感じる。ポテトチップスの袋を戸棚から取り出して、袋を開けることを意識する。袋に手を突っ込んで指先で一枚取り出して口に運ぶことを意識する。口の中で噛んで油が染み出してきて、舌先で塩味を感じる、カリッとした感覚。云々などと、しつこくやっているとあまり食べたくなくなるそうだ。
 
そうだ。というのは、意識するつもりが、何度やっても、いつの間にやら脳の癖に支配されて、夢中で次々にポテトチップスを口に運び、食べすぎてしまうからだ。