ソビエト・ミルク ラトヴィア母娘の記憶

20年ほど前、とある電機メーカーのシリコンバレーの子会社へ派遣されていた時の同僚にラトビア出身の人がいた。アレックスという当時30代前半の男性で、私と年が近いこともあり、屋外の喫煙所でタバコをふかしながら、お互い不自由な英語でボソボソとよく話した。

 

彼はソ連では、社会経済研究所のようなところで働いていたが、ソ連の崩壊に伴って難民としてアメリカに来たといっていた。奥さんと子供一人連れて来たそうだ。その時は、ラトビアという国がどこにあるのか、ソ連ラトビアユダヤ人の関係、どんな経緯で難民になったのかも全くわからなかった。当時の英語力ではこみいった話はできそうもなかったし、過去のことにあまり立ち入るのもどうかと思い、それ以上の詳しい話は聞くこともなかった。

 

その後、日本に帰ってから、ティモシー・スナイダーの「ブラッドランド」を読んで、第2次世界大戦の中の独ソ戦の時に、ドイツとソ連の間のポーランドやバルト3国では、ドイツに占領されている時はソ連の手先だと疑われ、ロシアが再占領した時にはドイツの手先として疑われ、地元の人々が大変な扱いを受けたと知った。

 

最近、池内紀の「消えた国 追われた人々 東プロシアの旅」とギュンター・グラスの「蟹の横歩き」、「玉ねぎの皮をむきながら」を読んだこともあり、ロシアとドイツの間、バルト3国についてもっと知りたいと興味を持っていたこともあり、朝日新聞の書評でこの本を紹介しているのを読んで直ぐに購入した。

 

この本に登場する母親は1944年生まれ。ラトヴィアがソ連の一部として実質上併合された時に幼少期を過ごす。実の父親は、ソ連兵に反抗したばかりに暴行を受け収容所送りになる。産婦人科医として働きながら25歳の時、1969年に娘を出産する。母親が精神的に不安定で、アルコールや薬物に走り、娘が祖父母が母親を支える。母と娘の回想が交互に記される。反体制的な教師が収容所送りになって突然いなくなる、そんなことがあっても、誰も何もなかったように平然と日常生活が過ぎていく。

 

二人の回想はソ連の指導者がゴルバチョフの時代となり、ベルリンの壁崩壊まで続く。歴史書を読んでいるだけでは、感じることができない人々の生活の肌触りが伝わる。

ソビエト・ミルク: ラトヴィア母娘の記憶

ソビエト・ミルク: ラトヴィア母娘の記憶

 

1991年にソ連の崩壊とともに、ラトヴィアは独立。ラトヴィア人主導の政府となる。今度は立場が入れ替わり、人口の約30%を占めるロシア系住民が、無国籍になるという問題が発生している。