ゾミア 脱国家の世界史

年末年始に ジェームズ・C・スコットの「反穀物の人類史」を読んで、国家や、国家成立の基盤となった穀物栽培についての考え方をひっくり返された。

 

「反穀物の人類史」の内容を簡単に紹介すると、

 

米や小麦などの単一の穀物を栽培する農業が始まり、灌漑施設の運営など、効率的に共同作業をするために国家がつくられた。それによって人々の生活水準は大幅に向上した。と私はなんとなく考えていた。

 

ところが、スコットは狩猟・採集や焼畑農業などしていた人々が、単一品種の穀物栽培を基盤とした国家に取り込まれることによって、むしろ生活水準が低下したと言う。その理由は、まず、単一の穀物栽培には集約的な労働が必要だったこと。狩猟・採集社会の方が少ない労働で食物を調達できたそうだ。だから、国家の始まりは、人々が自発的に穀物栽培に関わったのでなく、必ず奴隷や捕虜による強制労働が不可欠だったのだ。また、単一の穀物に依存することによるリスクが大きい。不作になれば、即飢饉に繋がる。さらに、狭い範囲に人々が集中して暮らすことによって、伝染病のリスクも高まる。

 

だから、自分の意思で国家を捨て国家と関わらないように生活する人々が、20世紀後半になるまで存在したのだ。

 

この、「ゾミア」はスコットが「反穀物の人類史」よりも前に書いた本で、東南アジアの山岳地帯の民族を引き合いに、上記のようなスコットの持論を展開している。

 

ゾミアというのは、インドの東端からベトナム、中国の南部に囲まれた東南アジアの山岳地域のこと。この地域には、中国やインド、タイやビルマベトナムの平野部で集約的な穀物栽培を行う国家の支配を嫌い、逃れてきた人々が暮らしている。彼らは小さな集団に分かれ、狩猟採集や焼畑を生業とする。

 

それぞれの集団は、国家の側からは、部族とか民族と呼ばれているが、それぞれの部族は人類学的な特徴があるわけでない。中国から逃れた人もいれば、タイ、ビルマの平野部から逃れてきた人もいる。言語や宗教も時代によって変わる。なぜなら、部族のアイデンティを政治状況によって見繕って都合の良いものを使うのだ。

 

山に暮らす人の共通点は、国家に捕捉され、収奪されるのを避けるため、いつでも移動できるよう、狩猟採集、焼畑での芋類の栽培によって食料を調達し、アヘンや宝石など高価な山地の特産物の取引を支配することで収益をあげる。平野部の多くの人口を擁する国家の周縁に止まり、貢物を送り間接的に支配下に入る部族もあれば、一方で、標高の高い山岳地帯の奥深くでほとんど、自給自足の生活を送る人々もいる。

 

つまり、彼らは、文明に取り残された未開部族ではない、自分の意思で国を捨てて、国家に尻尾を掴まれないように、分散して暮らし、歴史も文字を捨てた人たちなのだ。

 

読みながら日本にもあてはまるんじゃないかと思った。日本の木地師や山師など山伏など山に暮らす人々。村上水軍など海で暮らす人々。平家の落人伝説。集落から離れた山奥に住み込んで耕作する白峰村の「出作り」なども、国家の捕捉を逃れるという意味で近いものあるんじゃないかと思った。

 

視野を広げてくれる本です。

 

ゾミア―― 脱国家の世界史

ゾミア―― 脱国家の世界史