祖父の戦争
一人暮らしの母の生存確認にのため、月に一度は週末に母に会いに行って実家に泊まるようにしている。土曜の夕方に実家へ行って、一緒に晩御飯食べて、テレビ見ながら夜を過ごし、翌日の午前中に庭の草むしりや窓ガラスの掃除など、母一人ではこなしきれない家の仕事をやってお昼ご飯を食べて帰ってくる。
2年前の7月ごろだったと思う。晩御飯を食べ終わって、戦争を扱ったテレビ番組を見ていた時に、母がポツリと話した。
「母さんが小学生くらいのときかな、爺ちゃんが友達と家に集まって、戦争の話をしているのを聞くのが嫌やった。戦争で中国へ行った時に、中国の人に悪さをしたことを聞いているのが嫌やった。女の人とかに。」
母がそんなことを語ったのは初めてだったので、私はどう返していいかわからず、「へぇ、そんなことあったんや。」と曖昧な言葉を返してその場はそれ以上話しはしなかった。
祖父は、1917年生まれで2001年に84歳で亡くなった。戦争が終わった1945年の年齢が28歳。私が子供の頃、お盆や正月で親戚が集まった時には、軍隊時代の話をよくしてくれた。金沢城にあった駐屯地で過ごしていたこと、走るのが早くて中隊だか大隊のマラソン大会で1番になったこと、中国に出征した時は、延々と続く行軍が辛かったこと、45分歩いて15分休憩を徹夜で繰り返す。眠くて眠くて歩きながら寝ることもあったこと、敗戦の時には本土決戦に備えて千葉の九十九里浜で塹壕を掘っていたこと。などなど
そんな断片的なエピソードは聞いていたが、祖父が何歳ごろ兵隊に取られていたのか、中国にはいつ頃行っていたのかなどは知らなかった。母に聞いても、知らない、祖父と話したこともないと言う。
身内の従軍経験について具体的に突き付けられたことがなかったので、ずっと気にはなっていたが、それ以上踏み込むこともなく2年が経過した。今年の4月になって、ふと、金沢城の駐屯地にいたことを手掛かりに少し調べてみようかと思った。
1932年:第一次上海事変で上海呉松に上陸
1935年:満州駐留
1937年:帰還するも動員下令で再び上海に上陸
1939年:帰還
1940年:満州駐留
1944年:7月、沖縄へ移動 11月に台湾へ移駐
とある。祖父は1917年生まれなので、1932年(昭和7年)の第一次上海事変の時は、まだ15歳、1937年(昭和12年)の上海上陸の時には20歳。となると戦争で中国に行ったのは1937年(昭和12年)の上海上陸より後のことになる。
1937年といえば、日中戦争が始まった年だ。その年の7月に盧溝橋事件が勃発、軍事衝突は上海にも飛び火する。8月に日本軍は上海に向けて援軍派兵を決定し全面戦争に発展する。歩兵第七連隊は上海への応援部隊として動員されている。
さらに調べていくと
この論文にたどり着いた。「第九師団と南京事件」岡野君江
https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_10943459_po_ART0009971641.pdf?contentNo=1&alternativeNo=
上海での戦いから、南京への追撃戦まで、金沢に本拠をおいた第9師団、その傘下の歩兵第七連隊は関わっている。特に南京では、敗残兵の掃討戦において第七連隊は、多くの住民が逃げ込んだ国際難民区を担当している。南京事件の核心とも言える地域だ。
もしかしたら、祖父が南京事件に関わっていたかもしれない。
そう思うと気になって調べる手が止められない。歩兵第七連隊の戦史をまとめた本がないかと、調べると、中国へ派兵されていた当時の連隊長である伊佐一男さんが中心となって、歩兵第7連隊のOBがまとめた「歩兵第七聯隊史」という本があることがわかった。金沢市の図書館にもある。
早速図書館の参考資料室で閲覧する。同じようなことを考えて調べる人が多いのか、たくさん読まれて紙がよれよれになっている。文章は簡潔。でも実際に指揮をとった連隊長がまとめただけあって、毎日の出撃の時刻、戦闘終了の時刻が記され、朝の軍隊配置の状況と戦闘終了時の配置は図面になっている。巻末には戦死者の所属、氏名もまとめられている。実際に戦った人たちが書いているので、実際の緊迫感が伝わってくる。
上海攻略の戦いは激しかったようだ。戦死者が多いことでわかる。南京に迫るにつれ、逃げる敵を追う掃討戦の気配が強くなる。毎日の記載も淡々としてくる。南京に入ったのが12月11日、国際難民区の掃討作戦が行われたのが12月16日。その日の記載は、掃討戦をやったというたった1行。詳しいことは何も書いてない。
ここまで調べてみて、自分が日中戦争について時代背景を何も知らないことに気づく。せっかくなので、これを機に関係する本を何冊か読んでた。読んだのは、
「生きている兵隊」石川達三(中公文庫)
加藤陽子さんの「満州事変から日中戦争へ」は、資料をもとに理詰めで事実を明らかにしていくところが面白かった。加藤さんは日本学術会議のメンバーに推薦されたけれど、政府に任命を拒否された人。そんな興味もあって読んでみた。
「生きている兵隊」は、記者として上海から南京までの戦いに従軍した石川達三が、その時の状況を帰国後すぐに小説として発表したもの。当時のことなので検閲で伏字の部分はあるが、よくここまで書けたなと思うくらい虐殺の場面など結構あからさまに書いてある。
いったい祖父は南京事件の時に兵隊として関わっていたのか。母にあらためて聞いてみても、自分が生まれる前のことなのでわからないという。
なんとかして調べることはできないか、ネットで戦争関連の記事をいろいろと眺めていたところ、軍歴証明という公文書があることがわかった。軍人恩給の支給の根拠となる大事な書類らしい。県が取り扱っていて6親等以内の親族であれば、戸籍や住民票など本人との続柄がわかる書類を添えて申請すると取り寄せられることがわかった。
早速、母にお願いして申請してもらった。申請して3日後にあっさり届いた。以下はその内容の抜粋
第1中隊に編入
昭和14年 2月18日 歩兵第7連隊補充員として宇品港出発
昭和14年 2月22日 呉松港上陸
自昭和14年 3月14日 粤漢線方面の警備に従事
至昭和14年 5月11日
自昭和14年 5月12日 新墻河大雲山付近の戦闘に参加
至昭和14年 5月25日
自昭和14年 5月26日 新墻河沙港以北及岳州方面の警備に従事す
至昭和14年 6月 8日
同 日 復員下令
昭和14年 6月 9日 内地帰還のため嘉魚に集結
昭和14年 6月16日 嘉魚出発
昭和14年 6月27日 宇品港着
昭和14年 7月 7日 召集解除を命ず
時期はわかったが、見慣れない地名ばかり。読み方すらわからない漢字もあるので、パソコンの手書き入力で漢字を特定して検索する。
まず、出発地の「宇品港」、これは広島の港。「呉松港」は上海の港。「粤漢線」は、中国の鉄道の路線名。中国を南北に北京から広州までを結ぶ幹線だ。「新墻河大雲山」新墻河は長江の支流で、武漢から長江を200キロくらい遡ったところに合流点がある。洞庭湖の近くだ。大雲山は新墻河の河口から東へ行ったところ、通城市との間に広がる地域。新墻河と長江の合流点がココ。
「嘉魚」は武漢近くの郡の名称。
武漢のあたりで、鉄道の警備を2ヶ月ほどやって、その後、戦闘の期間は2週間ほどだったようだ。しかも、戦闘が終わってすぐに日本に帰還している。鉄道の警備のため、深夜に銃を担いで線路沿いを歩いている祖父の姿を想像してみる。
日中戦争でのの日本軍の勢力圏をあらわした地図を見ると、日本軍が一番奥深く中国の内陸部に入った地点で従軍していたようだ。
戦闘の状況については、「歩兵第7聯隊史 武漢戦」では、「新墻河作戦については記録に微すべきものがないので、戦闘行動を記載することはできないが」とそっけない。あまり激しい戦闘はなかったようだ。通城を出発して西に向かって進軍したようだ。5月25日まで戦闘に参加して、6月8日には復員命令が下っている。
当時の新聞も確認してみた。玉川図書館の資料室で北国新聞の昭和39年6月分の新聞をマイクロフィルムで読んでみた。28日の夕刊に、第一陣が帰還したと一面にある。到着した兵士の名前がひとりづつ出身地とともに記載している。29日、30日の新聞もみたが祖父の名前はなかった。何回かに分散して金沢に帰還しているので帰還は7月に入ってからなのかもしれない。
地名や時間は、軍隊が行動経緯がわからないようにすべて伏せ字になっている。金沢に帰ってきたのだから金沢駅であるのは明らかなのに、○○駅と書いてある。それと、当時は夕刊を購読するのがあたりまえだったのか、夕刊で報道した記事は翌日の朝刊には掲載されていない。
結局、祖父は、武漢戦の後の比較的落ち着いた時期に従軍し、あまり激しい戦闘に参加していなかったようだ。
軍歴証明には、その後の経歴も記載されていて、昭和18年9月に歩兵第107連隊に応召、昭和19年7月に歩兵第203連隊に転属、その年の12月25日から昭和20年2月15日まで、A型パラチフス(腸チフス)で千葉県下志津陸軍病院に入院している。敗戦のとき九十九里浜で塹壕ほっていたという祖父の話とも整合する。
母によると、祖父は大工だったので軍隊内で建物の修繕など何かと便利に使われていたらしく、そのおかげもあって太平洋戦争の末期にも戦地におくられることもなかったのではないかと祖母がよく言っていたらしい。
夏になると、戦争をテーマにしたテレビ番組が放送されて、私もたくさん見てきたけれど、自分とは離れた出来事、他人事としてみていたようだ。自分の祖父の経験に思いをはせてみると、そこから具体的に知りたいことが次々と芋づるのようにわきあがってくる。地元からどのくらいの割合の人が従軍して、戦死したのか。その時の世の中の雰囲気。何を楽しみに暮らしていたのか。戦後は従軍した経験をどんな思いで胸の内に持ち続けてくらしたのか。傷痍軍人てどんな人達だったのか。軍人恩給ってどのくらいもらえたのか。
祖父が存命の時ならば、直接聞けたのにとも思うが、生々しい話は家族には語れなかっただろう。時が経過して直接の経験者がいなくなり、怨念が解けることで、かえって歴史として正面から向き合うことができることもあるのではないか、と思う。