かき餅

正月の鏡餅をかき餅にした。ここ5年ほど毎年作っている。


鏡開きをしたら、鏡餅を2センチ角のサイの目に切る。松の内の間にお餅が乾燥しているので、包丁を両手で押さえて結構な力をいれなないと切れない。特に今年買った越山のお餅は水分が少ないのか硬くてそのままでは包丁の刃が入っていかない。1日お餅を丸ごと水に浸けてふやかしてから切った。切ったお餅はザルに並べて乾燥させる。私は居間の石油ファンヒーターの上に乗せて放置する。2週間程度で芯まで乾燥する。乾き切ってしまえば、カビがはえることもないので保存用の瓶などにいれておけば日持ちする。


1月14日に餅を切って乾燥させたかき餅が完成したので、今朝、オーブントースターで焼いて食べてみた。紅白のお餅が乾燥して淡いピンクと白のかき餅、味はもともとのお餅の塩味だけ。お米の甘みと旨味が1番よくわかる。去年までは娘も妻も食べず、私がひとりで楽しんでいたのだが、今朝は2人ともポリポリと手を伸ばしていた。いつもより早く無くなりそうだ。

f:id:benton:20190126155916j:image

意識と仏教の話

「右手か左手どちらかの手をあげてください。」と言われた人が、心の中でどちらの手をあげるかを決断して、手をあげるまでの脳の活動を脳磁計でみると、その人が決断するよりも、何秒か前にすでに脳は本人が意識することなく、どちらの手をあげるか決めているそうだ。だから、脳磁計を見ると本人が決断する前に、どちらの手をあげるかがわかるそうだ。意識が決めているのではなく、脳のどこかで無意識のうちに決まっているのだ。意識は単にその結果を知らされて、意識が決めたと思い込まされているだけなのだ。
 
では、決めたのは誰なのか。何なのか。それは脳の癖のようなもの。その場での外界からの刺激、過去の記憶から刺激を脳が受け取り、脳が自動的に反応するのだそうだ。言い換えると脳の癖のようなものに左右される。
 
日々の行動の中でかなりの部分がこのような、刺激と記憶に対する脳の反応の癖によって左右されている。自分の意思や意識よりも、癖や習慣で行動が決まる割合が多いのだ。ということは、行動を変えたい時に、あまり自分の気持ちとか意思、高い意識に頼るのは得策ではないということだ。意識で行動を押さえ込もうとしても、無意識の脳の反応の癖に負けるのだ。
 
ここで、突然仏教の話になるが、仏教でいう「縁起」というのが、この脳の反応の癖のようなものだと思う。現時点での外界からの刺激と過去の記憶、習慣が合わさったものへの機械的な反応だ。今この瞬間の行動は、自分の意識が決めるのではなく、今この瞬間の状況+過去の積み重ねによって決まる。
 
ということは、今この瞬間の行動=反応の仕方を変えたければ、まずは外界からの入力を変える。つまり環境を変えるべきなのだ。環境を変えて行動を少しずつ変える。行動が少し変わることにより、次の瞬間には過去の記憶も少し変わる。そうやって少しずつ変える。
 
もう一つの方法は、脳が勝手に反応していることを自覚して、その反応の瞬間に気づいていること。お腹が空いて、無意識にお菓子を食べる。気が付いたらポテトチップスを一袋食べきってしまう。そんな時は、お腹が空いていることを感じる。ポテトチップスの袋を戸棚から取り出して、袋を開けることを意識する。袋に手を突っ込んで指先で一枚取り出して口に運ぶことを意識する。口の中で噛んで油が染み出してきて、舌先で塩味を感じる、カリッとした感覚。云々などと、しつこくやっているとあまり食べたくなくなるそうだ。
 
そうだ。というのは、意識するつもりが、何度やっても、いつの間にやら脳の癖に支配されて、夢中で次々にポテトチップスを口に運び、食べすぎてしまうからだ。

何のために

自分のために何かをしようとしても長続きしない。思っているほど自分の事を気にかけていないのだろう。自分の為に必要な物というのは実はそれほど多くなくて、命をつなぐだけの食べ物と、衣服と安心して眠れる場所があればその他は大したものは必要ない。だから、お金は大したインセンティブにならない。食べ物と服となる場所は、今の日本ならどうとでもなる。空き家はたくさん、自分で料理すれば食べ物も安い。古着も溢れるくらい流通している。


誰かの役に立ちたいと思う気持ちは、自分の利益を思う気持ちよりも、長く続く動機になる。子供のため、妻のため。べただけど誰かが喜ぶ顔を見たい気持ちは、生きて何かを成し遂げる理由になる。


もうひとつ強い動機となるのは、何かを企てようという気持ち。大げさな大義はないのだけれど、こんな事出来たら面白いだろうなとか、誰かをあっと言わせたい気持ち。いたずらごころと言ってもいい。誰に言われたことでもなく、大事でもないことを勝手にやり始めて、企てている時が1番面白い。成功しても誰かが褒めてくれるわけでなくてもいい。損得抜きで好きでやってるのがいいのだ。

ニトリで買い物

娘を塾へ送って行ってから、妻と2人でニトリで細々とした買い物へ行く。持ち手がちぎれたので新しい洗濯籠、塩と胡椒のミルや醤油差しなど毎日つかう調味料を置く台、ひとり分の味噌汁をつくるのにちょうどいいくらいの小さいステンレスの鍋、1人がけのソファに被せるカバーを買った。朝10時30分頃にお店に入ると、そこそこの賑わいだった。そこそこのデザイン、品質、そこそこ安い価格。とこだわりがなければ、普通に暮らす分には必要十分だ。

 

ニトリの次はやまやで贈り物用のお酒と米と岩塩を買う。晩御飯にタコ焼きをするというのでお供のビール350cc缶を1本、妻は梅酒を買う。

 

帰りに隣の岩本屋でお昼ご飯を食べる。妻はラーメンと唐揚げ、私は鶏塩タンメンと唐揚げ。日曜日のお昼だというのに店員さん2人で対応していたけれど、ピークの時にはお客さんをさばけるのだろうかといらん心配をしながら店を後にする。

 

雨が降り続くので午後は家にこもって、それぞれが昼寝をしたり書き物をしたり、本を読んだりと気ままに過ごす。私は昨日発注したiclever社製のiPad用折りたたみ式ワイヤレスキーボードが届いたので、早速そのキーボードを使ってこの文章を書いている。これまで使っていたキーボードは使う度にbluetoothの接続を設定しなければならなかったのが我慢できなくなって買い換えたのだ。薄く軽いけれどキーピッチが広く使いやすい。これなら出張先で報告書作成するのもはかどるわ。

 

 

 

 

失われた時を求めて(1)(2)

 最初はスワンはオデットのことをそれほど好きという訳ではなかった。スワンはわざと冷たく接して焦らしたり、手紙に返事を出さなかったりと強気の態度で接して、オデットを弄ぶ。ところが長く付き合ううちに立場が逆転する。あなたのためにいつでも時間は開けてあると言っていたのに、今日は観劇だ、友達にお茶に誘われていると会えない日が続く。そうなるとスワンは気が気でない。オデットの行動を知りたいと後をつけたり、約束もなしに不意に家を訪ねてみる。そのうちにスワンの頭の中はオデットのことで頭がいっぱい。何もしないで毎日オデットのことだけ考えて廃人のように暮らす。オデットに冷たくあしらわれ、焦らされて、時々優しくされてどんどん沼にはまっていく。もう、スワンは身を滅ぼす、というところで、スワンは気がつく。「あっ、俺それほどオデットのこと好きでなかったんや、あんまり好みの顔じゃないし。」

 

最初は19世紀末のパリの街や人の固有名詞がたくさん出てきたり、細かい心理描写がまどろっこしくて頭に入ってこなかったけれど、落ち着いて読むと、糸を針の穴に通すように過不足のない絶妙な表現であることに気づいた。

 

時間をかけてじっくり読みたい本だ。

失われた時を求めて(1)――スワン家のほうへI (岩波文庫)

失われた時を求めて(1)――スワン家のほうへI (岩波文庫)

 
失われた時を求めて(2)――スワン家のほうへII (岩波文庫)

失われた時を求めて(2)――スワン家のほうへII (岩波文庫)

 

 

 

牡蠣が来た。

広島のおばさんから牡蠣が届いた。50個くらいが発泡スチロールの箱に入って届いた。

 

早速中華鍋に牡蠣を積み上げ、家で一番大きなボウルを被せて強火にかける。10分くらいしてボウルと鍋の隙間から水蒸気が吹き出したら出来上がり。中華鍋をそのまま食卓に持ち込む。ナイフで殻を外してレモンを垂らしてかぶりつく。旨い。

 

旨い旨いと10個ほど食べたらお腹がいっぱい。残った牡蠣はフライパンで炒り煮にして、ニンニクとローリエ唐辛子を入れたオリーブオイルに漬けた。

f:id:benton:20190118204718j:image

f:id:benton:20190118204732j:image

f:id:benton:20190118204747j:image

f:id:benton:20190118204802j:image

ランニング:天神坂を登って石引通りを金沢城へ

息子を成人式の会場へ、娘を模試の会場へ車で送り届けてから、ランニングに出かけた。金沢の冬にはありえないピカピカの晴天。家にこもっている理由がない。

 

お酒を控えているからと、毎日アイスやチョコレートを食べたせいで体重が少し増えてしまい、年末年始とほとんど体を動かしていないので体が鈍っているので、ゆっくりと一歩一歩感触を確かめるように走り始める。小橋から浅野川の左岸を遡って橋場町へ。橋場町の北國銀行横の道に入り道なりに賢坂辻へ。賢坂辻から金沢マラソンのコースに入り古い街並みを眺めながら小立野台地の麓に沿って走る。椿原天満宮から天神坂を登って美大の脇に出る。石引の通りを下って兼六園へ、中には入らず石川門から金沢城を突っ切って、大手町、彦三から小橋に戻る。だいたい1時間。

 

石引は近くにスーパーがないので普段の買い物は不便で、今は寂れた感じだけれど、香林坊や片町まで歩いていけるし、台地の上に街がぎゅっと凝縮されていて雰囲気があって好きな場所だ。

 

Mac Book Pro (mid 2012) のバッテリー交換、ACアダプター代替品の購入

2012年に息子用に購入したMac Book Pro。 大学進学を機に息子は最新のMac Bookを買ったので、今は私が使っている。7年が経過したけれど、私が駄文を入力したり、ネットを徘徊するくらいなら今もなんの問題もなく使える。問題はバッテリーがかなりへたってきたことと、ACアダプターのコードの付け根の部分の被服が劣化して割れてしまったこと。中の電線が見えている。

 

今後3年くらいは使い続けたいので買うことにした。ただ、どちらも純正品は高い。アマゾンで代替品を探すと、バッテリーは7,200円、ACアダプターは2,000円で入手できた。バッテリーに同梱されていた専用のドライバーで筐体の底のネジ外すとカバーが簡単に外れた。あとはバッテリーを止めている2箇所のネジを外して、コネクター抜いて、代替品と交換するだけ。10分程度で作業は完了した。

 

バッテリーもACアダプターも今のところ問題なく働いている。

 

 

牛鍋風

娘と二人だけの日曜日の晩御飯。何を食べようかと考える。知り合いからもらった葱が大量にあるので早く食べないと干からびてしまう。娘は葱が好きなので、牛鍋風のものを作ってみることにした。素直にすき焼きにすればいいのだろうが、甘くこってりした脂っこい肉を食べたい気分でない。もうちょっと汁気が多くて、スッキリした味、そう、肉たっぷりの肉うどんのうどん抜きのようなイメージ。

 

葱3本を3センチほどの筒切りにして鍋に並べる。その周りに牛肉の薄切りを配置。火にかけて、肉と葱に火がとおていい香りがしてきたところに、だしつゆの本をかけうどんに使う濃度に薄めて鍋に注ぐ。酒をドボドボ、みりんを少し追加。食材入れに中途半端に残っていた葛切りと麩も投入。あくを取りながら煮込んで葱が柔らかくなったところで完成。

 

熱々をそれぞれが小皿に取って食べる。よく火が通った葱のぬるっとした食感がいい。肉もあっさりして食べやすい。娘にも好評だった。具を全部食べ終わったら、残った汁にご飯を入れて雑炊にした。仕上げに溶き卵を入れた。

 

材料は2種類だけ、調理時間も20分程度と手間もかからない。葱をたくさん食べ他ので体がほっかほかだ。

f:id:benton:20190113191818j:image

f:id:benton:20190113191829j:image

レモンカード

年末に広島のおばさんから母へ沢山のレモンが届いた。庭の木になったものだそうだ。

 

そのレモン5個を母からもらってきた。冷蔵庫に入れておいても干からびるばかりなので早く使ってしまいたい。ジャムにしようか、はちみつレモンにしようか、塩レモンも面白そうと思案していたらレモンカードを思い出した。

 

去年の3月まで、金沢市の武藏が辻にあった、「OH LIFE」というスープと自家製パンを出すお店でフレンチトーストを食べたら、レモンカードが添えられていたのだ。濃厚なフレンチトーストにレモンカードの酸味が合わさって美味しかった。

 

今回はこちらのサイトを参考に作ってみた。

 

材料は、レモン2個、バター100グラムにグラニュー糖200グラム、卵2個。レモンに対して、げっと思うくらいバターと砂糖の分量が多い。少し減らしたい誘惑に駆られるが初めてなのでレシピ通りに準備する。グラニュー糖がなかったので甜菜糖で代用。

 

材料を全て鍋に入れて20分ほど湯煎にかけて完成。煮詰まってくるとどろっとして木べらでかき混ぜた時に鍋の底が一瞬見えるようになる。さらに時間が経つと鍋肌にレモンカードがこびりつくようになる。こうなったら完成。熱々のレモンカードを熱湯消毒した瓶に詰める。

 

レモンが少ないかなと思ったけれど、鍋肌に残ったレモンカードを舐めてみると、酸味は十分。酸味とバターのコク、砂糖の甘みのバランスが絶妙だった。明日の朝、トーストにのせて食べるのが楽しみだ。

 

完成したレモンカード。思いの外たくさんできた。

f:id:benton:20190113133630j:image

 

材料を全て鍋に入れたところ。四角いのはバター。上はレモンの皮の黄色いところを擦りおろしたもの。レモンカードが出来上がったら火からおろして混ぜる。

f:id:benton:20190113133644j:image

成人式

地域の公民館主催の成人式に参加するために、東京から息子が帰ってきた。

 

私は20歳の頃、いじけて世間を斜めに見ていて、「成人式なんかアホくさ。」と思っていたので、親に散々言われてけれど参加しなかった。成人式には全くこだわりは無く、息子には成人式あるけど出たければ出ればと伝えていた。一方、妻は振袖をきて写真撮って、両親にもきちんと祝ってもらったらしく、息子には人生の一つの区切りだから成人式には何があっても出席しなさいと強く勧めていたようだ。

 

成人式は日曜日の午前中にホテルで式典があって、引き続き昼食会も行われる。式典には親も出席していいらしく、妻は出かけると張り切っている。その日の夜は息子と同じ小学校に通っていた母親たちの呑み会、月曜日には同じ幼稚園に通っていた母親たちのランチ会があって旧交を温めるそうだ。成人式の主役よりも母親達が盛り上がっているのを見て、なんだかなぁと思っていた。

 

ただ、よく考えると、子供が小さい頃は子育てのほとんど全てを、幼稚園の送り迎えから幼稚園の行事、小学校のPTA活動などを妻に任せっきりだった。私は仕事にかまけて遠巻きに眺めるばかりだった。そう思うと妻にとって成人式は、子育てが完了した大事な節目なんだろう、私にとっての重要さとは全然違うのかもしれないと思った。だから呑み会にもランチ会にも気持ちよく送り出そうと思った。

 

卵雑炊

土曜日の朝、5時に起きて白湯を飲みながら新聞読む。新聞を読み終わって6時になっても誰も起きてこない。お腹も空いてきたので朝飯を作る。冷蔵庫をチェックすると冷凍ご飯がたくさんあったので、雑炊を作ることにした。具は白菜と油揚げ。鍋にだしパックと昆布を入れ煮立ったら醤油と塩で味付けして、刻んだ油揚げと白菜を投入する。しばらくしたら冷凍ご飯を放り込んで煮る。

 

ご飯が十分にふやけたら出来上がり。味見したらあっさりしすぎて物足りなかったので、溶き卵を入れた。卵を入れたら、全部が卵の味になって白菜も油揚げも存在感なくなってしまい、どうしたいのかよくわからない少し残念な雑炊になってしまった。

 

平成が始まった頃 その2

 オートバイにキャンプ道具一式を積んで、大阪を出発したのは3月初旬。明石から、たこフェリーに乗って淡路島に渡り、島を縦断して鳴門海峡大橋から徳島へ。1日目はずっと雨が降っていて、吉野川のとある橋の下にテントを設営した。何しろ初めてのひとりテント泊だったので、ちょっとした物音が気になってほとんど眠れなかった。そのあとは四国の海岸沿いに沿って南下して室戸岬高知市足摺岬宿毛宇和島、大洲、佐田岬半島の先端まで行く。宿毛では小さな漁港の船溜りで海を眺めながら日向ぼっこをしていると、国会議員の秘書をやってるという人が声をかけてくれて、30分くらい話し込んだ。内容は覚えていないけれど、名刺を渡され、何か困ったことがあったら連絡するように言ってくれた。別れ際に、地元のみかんをレジ袋3つ分くらいもらい、カバンに入りきらず、袋をハンドルにぶら下げてバイクを走らせた。フェリーで九州へ。九州も時計回りでぐるっと一周。途中で屋久島にも渡った。フェリー乗り場では、仕事で島に渡る建設業の方に、「トラックの荷台に乗せようか、そうすればフェリー代が安く上がるよ。」と声をかけてもらい、お言葉に甘えて乗っけてもらった。3週間ぶりに下宿に帰ってきた時には、料金未払いで電気を止められて、自宅に帰ってきても一晩ヘッドライト点けてキャンプだったのは往生した。

 

野宿生活で毎日体を動かして、嫌が応にも人と会って話をしたおかげで、憑き物が取れたように気持ちが軽くなりなんとか大学に戻れた。

平成が始まった頃 その1

平成が始まったのは1989年。私は22歳。留年して2回目の大学2年生をやっていた。その前年の大学2年の前期までは真面目に授業に出席して順調に単位をとっていたのだが、9月ごろから、こんなことしていたらダメや、と突然全てがアホらしくなり。下宿に3ヶ月ほど引きこもっていた。昼頃に起きて近所の喫茶店に行って雑誌を読みながら昼飯食べて、図書館に行って閉館まで本を読んで、スーパーで晩飯のおかずと酒を買って下宿に戻り、夜中までひたすら本を読んでいた。そうやって暮らしているうちに、心がどんどん内向きになって誰とも会話ない日々を過ごしていた。1月になって、さすがにこれはまずいと思ったけれど、大学には行く気がしないので、とりあえずアルバイトを始めた。扇町公園の近くにある学生へアルバイトを斡旋する人足寄場のような所へ行った。壁一面の黒板にその日の求人が書き出してあり、係りの人がでは1番の仕事やりたい人と声をかけると、やりたい人が手をあげる。希望者が多いときはじゃんけんで決めるのだ。じゃんけんをしている間にも、次々と仕事が読み上げられる。時給が良くて楽そうな仕事は希望者が多いので競争率が高い。下手にそんな仕事にエントリーしてじゃんけんに負けると、その日は仕事にあぶれてしまう。何回か通ううちに、肉体労働で体力的にきつい仕事、でも時給はいい仕事が自分には合ってるし、競争率も低いことに気がついた。引越しや工事現場、夜中にデパートの催事場の模様替えをする仕事は時給が高いし、仕事終わりの達成感があって良かった。そんな時にたまたま出会ったのが、騒音測定の仕事。交差点や工事現場の近くに装置をセットし、12時間とか24時間、長いところでは48時間、騒音を測定するのだ。測定すると言っても、毎正時に装置のスイッチをオンにして測定開始。10分経ったらオフにすする。現場によってはその間に交通量調査をすることもある。ただそれだけ。残りの50分間は、ただ装置の番をしてそこにいるだけでいいのだ。暑さ寒さの対策さえしっかりしておけば、本を読む時間はたっぷりあるし、人と話す必要もない。しかも、24時間で2万円以上もらえるのだ。当時はバブル絶頂、関西では関西空港の埋め立て工事と、明石海峡大橋の建設工事が並行して勧められていた。関西空港の埋め立て用の土砂を採取していた和歌山県の加太にも、明石海峡大橋ケーソンの工事現場にも騒音測定に行った。それこそ仕事はいくらでもあった。一度は調子に乗って、24時間の現場の直後に48時間の現場を入れた。さすがに睡眠不足で最後はフラフラになった。でも72時間で7万円もらえるのはありがたかった。淡路島の高速道路の脇に1週間泊まり込みで騒音を測ったこともある。近所の人が哀れに思ったのか、毎日太巻きを2本持ってきてくれた。最初はありがたくいただいていたが、3日目以降は太巻きを見るだけで胸が酸っぱくなり往生した。確か1週間で10万円以上もらったと思う。

 

大学も行かずにバイトばかりしているので、どんどんお金がたまる。そのお金20万円くらいで中古のバイクを買った。5万円くらいでキャンプ道具一式を買った。そして3月に旅に出た。

早退して散髪へ

息子がインフルエンザとともに帰省して、次の日には妻も発熱して寝込んでしまうという、ドタバタの正月休みだったので、年末に散髪に行きそびれた。襟足が伸びて耳にかかるようになり、最近とみに毛量が少なくなっているからなのか、中途半端に伸びた髪がまだらに見えてみすぼらしい。煩わしさに我慢できなくなって2時間早退して散髪してきた。

 

平日なので空いているかと思いきや、15分後に予約のお客さんが来るという。1時間待ちかなと思っていたら、お客さんが来る前にチャチャッとやってくれるという。お言葉に甘えて、鏡の前に座る。もう15年通っている床屋さんなので、いつもの通りで、とお願いする。バリカンで後ろと側面を刈り上げ、頭頂部を挟みで刈り込んで鋤いてもらう。ほぼ丸刈りに近い。息子のことや正月休みのことなどをボソボソと話しながら刈ってもらう。その中で、例年だと年末の30日、31日はものすごく忙しいのだけど、今年はどういうわけか暇だったそうだ。その代わりに年が明けて1月5日、6日が忙しかったらしい。床屋のご主人が言うには、正月を髪を切って心新たに迎える習慣がなくなったのかもしれない。確かに正月を特別な気持ちで迎えようという雰囲気は、年々薄まっている。うちも年末の大掃除は年々簡素化して、今年は台所の換気扇とレンジ周りを少しやっただけで、窓拭きもしなかった。年賀状は親戚向けに10枚くらい書くだけ。今年はテレビCMでも正月向けの特別なものが少なかったような気がする。子供の頃は正月だから新しい下着で迎えなければと、母親に無理やり新しいパンツをはかされたことを思い出す。

 

大掃除だ年賀状だ、おせち料理の準備だと、年末を無理してあたふた過ごして疲れ果てる必要もないと思う気持ちが一方ではあるが、正月が年に何回かの長期休暇のうちの一つになってしまうのもさみしい。

 

髪を切り終わり、奥さんにシャンプーをしてもらう。椅子を後ろに倒して洗ってもらう。他人の手で、入念に洗ってらうのは気持ちがいい。洗髪後の頭皮マッサージがいつもより入念なのは、髪が薄くなっているからなのかと、いらん心配をする。

 

次に髭そり。私にとって髭剃りは床屋での最大の楽しみ。髭一本も残すまじ、という気合いで皮膚を右に引っ張り、左に引っ張りしながら丁寧に剃ってもらえるのが嬉しい。絶対に自分ではできない。

 

1月から髭剃りが100円値上がりしたとのことで、お会計は4,320円。安くはないので、ちょっといいバリカン買って自分で刈ろうかと、年に1回くらい考えるのだが、髭剃りの心地よさに惹かれて、月に1回、いや3週に1回のペースで通っている。