「正法眼蔵」を読む 存在するとはどういうことか

あるものが存在するのは、それ自体を存在させる実質があって、それを認識する自己があると考えるのが二元図式による認識。正法眼蔵は、そういう立場はとらない。実質であると感じているものは虚構であり(無常)、他のものとの関係性(縁起)から立ち上がってくるにすぎない。二元図式の認識を脱却して、仏法の考え方に沿って生活し、あらためて自己をならう(自己を再構成する)のが禅の修業である。ということを、正法眼蔵の各章を詳細に読み込んで解説していきます。


存在の根拠は他者との関係性(縁起)であることについて、机を例として説明します。

たとえば、「机がある」と人は言う。それは、色や形に違いがあれ、誰が見ても「机」に見える。そう見えるのは、目の前のその物体に「机」の「本質」が内在していて、それが特定の場所と時間に出現して、「この机」という現象になったかれではない。
 ある物体が「机」であるのは、誰かが「机」として使ったからである。誰も使わぬ机は「机」ではない。逆に言えば、誰かがある物体を机として使えば、それは「机」になる。
「使う」という行為が「机」の存在を決まる。
さらに、使っている人間も、そのとき、彼が彼であるのは、「机をつかっている彼」としてであり、それ以外に存在のしようがない。そのときの彼の存在のしかたは、机の使用が決める。


また、自己についても、

目の前の出来事に思い悩んだりするのは、その出来事に思い悩むべき「本質」が内在しているからではない。そうではなくて、思い悩むから、事態は思い悩んだように、つまり「このように」現前するのである。いま「このようにある」思い悩むべき事態とは、思い悩む行為から切り離されて、それ自体で存在し、「自己」の思い悩む行為の「対象」になるものではない。そうではなくて、「自己」も「対象」も思い悩むことによって「このように」生成された事態なのだ。なぜなら、思い悩みは行為であり、行為こそ縁起の実質だからである。


そのように行為するから、そのような人になる。自己という実質があるのではなく、そのように行為するのが自己である。という立場です。必然的に、行為の仕方=生活の方法=作法を重視します。作法こそが仏を生成する行為だとします。ということで、洗面の仕方についても、詳細な決まりがあります。

両手に洗面桶の湯を掬い、額から両眉毛、さらに量目、鼻の穴、耳の中、頭や頬、全体を洗う。まず、よく湯を掬ってかけてから、こすって洗う。ようだれや鼻水を洗面桶に落としてはならない。
 このように洗うとき、湯を無駄に使ったり、洗面桶の外に漏らし落としたりして、はやばやと湯をなくしてしまっては鳴らない。垢が落ち、脂が除かれるまできちんと洗うべきである。耳の裏も洗わなければならない。普段水がつくようなところではないからである。眼の中まで洗うべきである。砂が入ってはいけないからだ。あるいは頭髪や頭頂まで洗うのである。それがすなわち正しい方法なのだ。

と口うるさい親のような細かさ。


正法眼蔵のお手軽な解説本と思うと、かなり小難しく途中で投げ出したくなります。無常、縁起、因縁、修証 について詳細に何度も説明してると思えばなんとなくわかったような気になれます。

南直哉さんのほかの著書
日常生活の中の禅:http://d.hatena.ne.jp/benton/20100516/p1
日常生活の中の禅:http://d.hatena.ne.jp/benton/20100921/p2
人は死ぬから生きられる:http://d.hatena.ne.jp/benton/20100921/p2