建築の東京

出張で東京に行くと、東京駅周辺の変貌ぶりに驚く。特に丸の内側には超高層ビルが林立し、東京駅を見下ろす壁のようになっている。湾岸ではタワーマンションも次々と建設された。私が東京に住んでいた1990年代の印象とは全然違う。鉄道の新路線が開通し、都心へのアクセスが良くなったからなのか、東京、特に都心への職、住の機能の集中が進んでいる。
 
この本は、バブル崩壊後の30年の東京における建築の状況を振り返る。著者の言いたいことは、本文の最後の一節に尽きると思う。
 
なるほど日本の地方都市はまだ危機感ゆえか実験的な建築がつくられているが、東京は経済原理が優先し、思いきった冒険的なプロジェクトがない。同じ2010年代に話題になったのは、日本らしさを金科玉条とし、東京駅の復元や日本橋の上の首都高の地下化など過去を美化する後ろ向きの計画だった。そして日本の地方都市は、おきまりの店舗を並べる商業施設を作ることで「東京」のまねをしないほうがいいと思う。だが、今の東京はまるで「東京」を模倣する地方都市の拡大版のような状態に陥っているのではないか。
 
1964年のオリンピックの時には、代々木の屋内競技場など当時の若手の建築家が設計した、後世に残るような優れた建築が生まれた。バブルの時には、それこそ金に糸目をかけず世界の最先端を行く個性的な建築が建てられた。今はどうだろう。経済優先で効率性ばかりを求めた平板なオフィスビルや、日本の良さを表現すると称して安易に過去を手本とし、世間から後ろ指を指されないことを至上命題としこじんまりまとまった公共建築がはびこっている。という。
 
その通り。ただ、一方ではこうも思う。べらぼうに高い東京に建物建てるのだから、経済優先になるのは当然のこと。役所も財政状況が悪化し、公務員への信頼が地に落ちてしまっては、昔のように世間に一歩も二歩も先んじたプランを採用するのも難しい。世論も一筋縄ではいかない。できるだけ炎上しないようにしなければ、話が先に進まないだろう。
 
「だから、建築がつまらなくなっても仕方ないじゃん。」と思う。しかし、建築の可能性は経済だけではない、長期間にわたって、地元で使われて、街のイメージを一変させることもある。そのことは、金沢21世紀美術館で人の流れが大きく変わった金沢の住民として体験したこと。
 
公共建築は、短期的なコストや効率だけでなく、長い目で見た効果も織り込んで計画すべきなのだろう。そのためには、行政側は計画の段階から情報を公開し合意形成に時間をかけていくことが大事になる。昔だったら政府にお任せで好きにやれたかもしれないが、今なら時間をかけて議論するしかない。
 
そういう意味では、著者が丁寧に言及している、ザハ・ハディッドが設計した新国立競技場案が取りやめになったことについては、費用がかかりすぎるとか、周辺の景観にマッチしないとか色々批判されたけれど、根本は東京オリンピックを招致したこと自体が筋悪だったからだろう。それなりの大義名分もなく、議論も尽くさず、経済効果ばかりをうたって招致したことが、その後のゴタゴタの原因。
 
公共建築に関しては、計画の規模が大きくなればなるほど、今後は住民の合意形成に時間をかけていくことになる。これは行政の仕事のやり方全体を変えていくことになる。意思決定が遅くなり面倒だけれど、必要なことだし時間をかけるべきだと思う。
 
建築の東京

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