母が働いていた頃

母の生存確認も兼ねて、今週の土日に加賀市の実家に行ってきた。
 
日曜日の北國新聞の朝刊に、加賀市大聖寺にある「深田久弥 山の文化館」の銀杏が黄色く色づいているとの記事が載っていた。朝食後にコーヒを飲みながら母はその記事を読み、自分が20代の頃の話を始めた。
 
そもそも「山の文化館」は、かつての加賀市にあった「山長」という織物会社の工場の一部を改修して利用している施設。母はその山長で昭和38年から46年までの8年間、母の年齢でいうと20歳から28歳まで、事務員として働いていたのだ。
 
 
私は昭和41年生まれ、母は私を保育所に通わせながら働いていた。当時は保育所は午後3時くらいまでだったようで、保育所が終わったあとは、近所の人にお金を払って、私を保育所に迎えに行ってもらい午後5時くらいまで預かってもらっていたそうだ。私もおぼろげながら夕方に事務所のストーブの横で母が仕事を終えるのを待っていた記憶がある。母は、昭和46年に弟が生まれたのを機に退職したのだが、本当は自分の親に子供たちの世話を任せてでも働き続けたかったようだ。
 
母は経理の担当だったのだが、お茶汲みやら掃除は当然のこと、来客があれば近所の和菓子屋さんまで、お菓子を買いに行くなどの雑用もやらされていたとのこと。今なら経理担当がなんでそんなことまでやらなきゃいけないのかと問題になるところだが、当時はそれが当たり前だと思っていたそうだ。逆に社長の奥様から、世に中の常識や行儀作法など厳しく躾けてもらってよかったと言っている。
 
そんな雑用の中でも、秋の恒例行事が、銀杏拾いと落ち葉の掃除だったそうだ。事務所の前に樹齢600年以上の銀杏の大木がある。昭和9年に街の大半が消失した大聖寺の大火の時にも工場が延焼しなかったのは、この銀杏の大木のおかげだと、社長さんはこの銀杏の木を大事にしていたそうだ。
 
母のような下っ端は、朝出勤すると銀杏の落ち葉を一枚も残さないように掃除するのが日課。落ち葉掃きを終えて経理の仕事に取り掛かると、掃除したばかりなのに、銀杏の葉がまたハラハラと落ちてくるのが窓越しに見えてげんなりしたそうだ。銀杏の実は、運転手兼任の雑用係の男性が季節になると拾って、近くを流れる大聖寺川の水に浸して果肉を洗い流してから、天日で干していた。食べられるようになった銀杏は、C反で作った袋に入れて、取引先などの会社の関係者にお歳暮がわりに送っていたそうだ。
 
母が働いていた昭和40年代前半は、日本の繊維産業がまだ隆盛を保っていた頃で、会社員として働いていた8年間を母が誇らしく感じているらことは、話を聞いていても伝わってくる。今も当時の会社の先輩とは付き合いがあるそうだ。また、その時に会社で経理の仕事をきっちりと教えてもらったおかげで、退職した後も知り合いの会社の経理事務を内職で請負うことができたとのこと。
 
昭和47年に日米繊維協定が結ばれて、合繊のアメリカへの輸出が制限され、繊維が構造不況業種と呼ばれるようになり、いつ頃なのか、母が働いていた会社も廃業してしまった。

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