鯛とキジハタ
釣り好きの上司からの釣果のおすそ分けをもらった。真鯛とキジハタ。キジハタは身に弾力があって刺身がおいしいらしいのですが、皮がぬるぬるして捌きにくいので煮魚に。真鯛は塩焼きにした。
キジハタは確かに皮が粘液に覆われていてぬるぬる。鱗を取り除いて頭を落とし、腹わたを取り除いてから湯通しをする。鍋に醤油、酒、みりんを入れて沸騰させてキジハタを投入。落し蓋をしてひたすら強火で7、8分煮て完成。食べてみる身がぷりっぷり。箸が通らないくらい弾力がある。
真鯛は腹わたを取り除いて塩焼きに。大きすぎてガスコンロの魚焼きグリルの上火に接触して頭が黒焦げになった。
キジハタは娘が喜んで食べていたのでよかった。よかった。魚の捌き方は、本やネットで見よう見まねでやっているので、一度きちんと勉強したい。
美術館と競輪場
富山の美術館と競輪場に行ってきた。
8時48分発の電車で富山へ向かう。なんとか座れたが座席はほぼ埋まって立っている人もいた。電車の中では、中々読み進めていない「失われた時を求めて」の6巻を半ばウトウトしながら読んで過ごす。
10時前に富山駅に到着。富山県美術館まで15分くらい歩く。いつきても富岩運河環水公園は美しいところ。子供が小さければお弁当持ってきて遊ばせに来る。今日の目当ては「チェコ・デザイン100年の旅」。20世紀初めの、アールヌーボー、キュービズムあたりの印刷物がかっこいい。緑や紺一色刷りの本や雑誌の表紙はたまらんくらいかっこいい。その頃に出版されたチャペックの「ロボット」の初版本も展示してある。
コレクション展の椅子の展示も良かった。イームズのラウンジチェアは座ってもいいとのことだったので試してみる。座面に腰のあたりを支えるクッションがあるので、でれっと座りやすい。いつか我が家にもオットマン付きで欲しい。午前中だったからか、適度な混み具合。ゆっくりできるのが何よりありがたい。
11時半頃に美術館を出る。インテック本社前からポートラムに乗って富山競輪場へ。17分の乗車時間で200円の均一料金とは安い。沿線の人は便利だろう。競輪に来るのは初めて。車券の買い方がわからなかったが、見よう見まねでなんとか買ってみる。とりあえず、1着と2着を当てる「2車単」といいう買い方を100円ずつ何度かやってみたが当たらん。倍率の一番低いの買ったら大穴出るし、当たる気がしない。
当たらないけれど、スタンドに座っていると海からの風が気持ちいい。コアな人たちの選手への声援も面白い。走っている人と観客の距離が近いのがいい。昼からビール飲んで気持ちよくなってる人、多数。私もカルビ丼食べながらビール飲む。隣のテーブルでは、4、5人が新聞片手にビール飲みながら、次に誰に賭けるべきか、しきりに議論している。7レースまで見て、再びポートラムに乗って富山駅に戻る。
駅の「とやマルシェ」に、鱒の寿司を買いに立ち寄る。ここは、いろんなお店の鱒の寿司を、鱒の生さ加減や酢の効かせ具合などをレーダーチャートで比較できるようにして売っている。わかりやすくていい。この前は生っぽいのを食べたので、今回は酢がそこそこ効いているらしい「吉田屋」のを買ってみた。
15時12分発の電車で金沢へ戻る。ビールの酔いが回ったのか居眠りしているうちに着いた。
親子丼
土曜のお昼ご飯に何を作ろうか考える。
電気釜で24時間保温中の黄色くなったご飯をなんとかしなければ。となると、炒飯か丼物。炒飯は先週作ったし、冷蔵庫に胸肉が一枚残っているので親子丼にするか。親子丼なら普段は玉ねぎを使うところだが、野菜室に買ってから1週間経過した干からびて芯が飛び出た長ネギが3本あるので、あれも使ってしまおう。
ということで、親子丼を作る。長ネギは1センチくらいの厚さの斜め切りにする。鶏胸肉は薄く削ぎ切り。ネギと鶏肉を鍋に入れ、濃縮出汁を適当に水で希釈して、酒とみりんと砂糖を入れて味を調整して火にかける。今回は甘めに味付け。ネギがクタクタになったところで、4個分の溶き卵をを回し入れて、鍋にふたをして3分待って完成。えのき茸の味噌汁もつける。
丼ものは少し甘めの味付けの方がほっとする。娘にも好評。
数息観
毎朝時間を作って坐禅の真似事をしている。真似事というのは誰かに師事して指導してもらっているわけでもなく、2回ほど坐禅の会に参加して、見よう見まねでやっているから。
明け方の3時くらいに目が覚め、仕事のことが気になって布団の中で横になったまま、悶々と考え事をしているくらいなら、パッと起きて顔洗って30分坐った方がいい。ざわついた気持ちが落ち着くのだ。
坐ると、まず最初に数息観というのをやる。呼吸をした数を10まで数えるのだ。息を吐いて吸って1、また吐いて吸って2。ただ呼吸を数えるだけなのに、不思議なことにいくつまで数えたか忘れてしまう。なんども同じ数を繰り返し唱えていたり、数を飛ばしてしまったりする。
先日、教育テレビの「こころの時代」という番組でお坊さんが坐禅の話をしていて、数息観の説明をしていた。それによると、息を吐きながら「ひと〜」と頭の中で唱え、吐ききったところで少し間をおいて、息を吸いながら「つ」と唱えるらしい。私はずっと、頭の中で「いち」、「に」、「さん」と唱えていた。試しに「ひとつ」、「ふたつ」とやってみたら、息を吸ってから吐くへの切り替えがスムーズにできるようになった上に、数え間違えもなくなった。
ちょっとしたことだけど、知ってると知らないのとでは全然違う。
余裕のない日々
余裕のない日々を過ごしている。朝、職場に着いてから夜に帰宅するまでの間、常に誰かの話を聞いているか、誰かに何かを説明しているかして過ぎていく。自分でじっくり何かを考えるとか、手を動かして作業をする時間がない。家に着くと、もう何かをしようという気持ちにもならず、ビール飲んでご飯食べて風呂入って寝るだけの日々。
今日はようやく少し時間ができたので、机の周りを片付けたり、溜まっていた資料をじっくり読んだりして過ごすことができた。仕事の合間に、一ヶ月前からやろうと思ってできていなかった、人間ドックの予約と車検の予約の電話をすることもできた。
夜は、妻は飲み会で娘は塾に行ったので、陸上競技の日本選手権をテレビで眺めながら、ひとりで晩御飯を食べる。蒸し暑いこの季節には冷蔵庫で冷やしたラタトゥユの口当たりが心地よい。妻は地物の枝豆を茹でておいてくれたのだけど、塾のお迎えがあるのでビールは飲めず、麦茶のアテにした。
幸せなひとりぼっち
土曜日の夕方、Prime Videoのオススメにあったので見た。
スウエーデンの映画。妻に先立たれて、仕事もクビになった頑固オヤジが絶望して自殺しようとする。首をつろうとすると、車両進入禁止の区域に隣に引っ越してきた家族がトレーラーを乗り入れてきて注意しなければと中断する。駅のホームで電車に飛び込もうとすると、他の誰かが先に線路に転げ落ちて、助ける羽目になる。自殺しようとする直前に、頑固オヤジが父親との思い出、妻との出会いを回想する。
スウェーデンの美しい景色や物静かの人々の生活がいい。古いサーブとボルボがたくさん登場するのもいい。親子が乗ったサーブ92が田舎道を走るシーンがいい。
何の事前情報もなしに見たのが良かった。
怒涛の2週間終わる。
仕事の上で、大変スリリングで痺れる2週間だった。緊張しすぎて朝ごはんも昼ごはんも食べる気がしなかった。家に帰っても仕事のことが頭を離れず、家族ともあまり話すこともなかった。何とか週末までたどり着いてぼけっとしている。
午前中は、妻と二人で出かける。農協の直売所で、キャベツ、きゅうり、トマト、娘が食べたがっていたのでスイカ、梅干し用の梅2キロを買った。その足でユニクロへ行って、今シーズン用のステテコにTシャツを購入。ちょうど昼飯時になり、駅西のベーグル屋さんで、ベーグルサンドのランチ。
家に戻り、早速、梅仕事。妻が梅を水洗いして1つずつ丁寧に水気を拭き取る側から、梅のヘタを竹串でつっついて取る。これを丁寧にやらないとおいしい梅干しはできないそうだ。
これから30分ほど昼寝してからランニングに出かけ、夕方には銭湯に出かけてサウナでぼけっとするつもり。今日は何もしたくない。
社会を変えるには
古代からの数々の社会制度の概要を眺めて、現代の民主制を相対化する。民主制のなかには、関係者全員が参加する直接民主制もあれば、選挙で選ばれた代表者が議論して意思決定する間接民主制もある。古来から、デモは民衆の意思表示の方法の1つであり、間接民主制の欠点を補うものであるという。
500ページを超える分厚い新書ですが、わかりやすい表現で読みやすい。選挙で投票しても何も変わらんと無力感を抱き始めた人に。じゃ、何すればいいのか、のヒントになる本です。
25周年
神社Bar
晴天の土曜日。娘は昼間は部活動、夕方から塾へ行くので夜の9時まで帰ってこない。妻と本読んだり昼寝したりと家でのんびり過ごす。午後3時になり少し体を動かそうと返却しないといけない本もあるので玉川図書館まで歩いて行くことにした。
昌永橋を渡って瓢箪町から安江町を抜けて武蔵ヶ辻へ出ると、百万石祭りの武者行列これから通りかかるところで、たくさんの人が道沿いに連なって待ち構えている。妻が少し立ち止まって見物したそうなそぶりをしていたが、私は全く興味ないので、そそくさと地下道を抜けてエムザ裏の通りを先に進む。
むらはたの今月のパフェは「マンゴー」。相変わらず賑わっている。突き当たりを右に曲がる。鰻屋さんの浜松の並び、以前まで古着屋さんだったお店が改装工事中だったので、今度はどんなお店ができるのかと中の様子をうかがいに近づくと、正面のガラスに白い文字で「神社Bar」と書いてある。あまりに意外な店名にギョッとして一歩下がると、入口のドアが赤い鳥居で囲まれている。鳥居をくぐって店内に入る仕組みのようだ。マスターは神主の装束で、真っ白な瓶子から盃にお神酒を注いでくれるのだろうか。お通しは勝栗で、お会計は賽銭箱にでも入れるのか。など妄想が膨らむ。
玉川図書館で本を返し、お茶でもしようとせせらぎ通りから香林坊へ向かう。いろんなお店を覗きながら歩いたが、混んでいたり休憩中だったりと入れず、結局、大和の地下食品売場の一角にある「金澤ちとせ珈琲」に入る。ここは妻の最近のお気に入り。仕事帰りに立ち寄ることもあるらしい。コーヒーは一杯づつサイフォンで淹れてくれる。パソコン広げて長居するような人はいない。買い物帰りの人たちがちょっと休憩するような落ち着いた雰囲気がいい。
人混みを避けるために尾山神社裏から商工会議所、下堤町、近江町市場を抜け、彦三大通りで帰ってきた。
ピダハン 「言語本能」を超える文化と世界観
アメリカ人宣教師が、アマゾンの奥地の「ピダハン」という少数民族の村で暮らし、彼らの言葉を調査するお話。彼の目的は聖書をピダハン語に翻訳してキリスト教を布教することなのだが、宗教はピダハンたちに必要とされず布教は失敗。しかも宣教師自身がピダハンの暮らしに影響を受けて信仰を放棄する。
ピダハンたちは、そもそも本人が直接体験したこと、または話し手が経験したことしか信用しない。2000年前ににキリストという人が存在してこんなことを言った。と説明したところで、真面目に聞いてもらえない。
その日食べる分の魚はその日に獲ってくる。ジャングルでキャッサバを育てるくらいで食料を蓄えることもないし、立派な住居を建てることもない。簡単な骨組みに丈夫な葉っぱで屋根を葺いた簡単な小屋に住む。嵐で吹き飛ばされれば建て直すだけ。外部から人がやってきて便利なものを持ち込んでも、不要なものは自分たちの暮らしに取り入れない。
明日のことは心配しない。直接経験したことしか気にしないから、いろんな概念をこねくり回して心配事を増やすこともない。食べて寝て楽しく過ごせればそれ以上は求めない。
原始仏典にあった人類の起源の話を思い出す。その日に必要な食料はその日に収穫する生活をしていたときには、いつも好きなだけ食べられていた人々が、毎日収穫に行くのが面倒だと考えて、食料を蓄え始めたことで、必要な食料を確保できなくなった話を思い出した。
- 作者: ダニエル・L・エヴェレット,屋代通子
- 出版社/メーカー: みすず書房
- 発売日: 2012/03/23
- メディア: 単行本
- 購入: 14人 クリック: 505回
- この商品を含むブログ (56件) を見る
実践 日々のアナキズム 世界に抗う土着の秩序の作り方
家事は大変
この前の月曜日に妻が入院してようやく1週間がたった。娘との二人暮らしの家事がこんなに大変だとは思わなかった。何が大変かというと、料理に洗濯、ゴミ出しに掃除に猫の世話、などなど。次々とやらなきゃいけないことがあって、テレビをみてゆっくりくつろいでなどいられないのだ。
料理は、休みの日に道楽でやるのとは大違い。冷蔵庫にある食材を賞味期限内に使い切るように朝晩のメニューを考えるのが大変。考え出すときりがない。自分の弁当は作ったことがあったが今回初めて娘の弁当を1週間作った。自分が食べるぶんには、ご飯にふりかけと佃煮だけでいいのだが、娘の弁当となると卵焼きと蛸ウインナーを入れて、緑色にブロコリーを茹でてなどと時間をかけてしまう。
ご飯を過不足なく食べきるのも難しい。できれば保温は12時間以内に抑えたいのだがどうしても余ってしまう。そんな時はおじやかチャーハンにして食べるようにした。無理して私が食べきることもあった。
朝起きてすぐに洗濯機を回して干すのは苦にならないのだが、仕事から帰ってきて洗濯物を取り込んで畳むのが辛い。畳むのが面倒なのでそれぞれのカゴを作っておいて、そこに投げ込むだけにしたらどうだろう。
朝起きてから寝るまで、とにかくやることに追われる。料理、洗濯、掃除のように家事としてはっきり認識できることだけでない。猫の世話やらゴミ出し、新聞の整理、宅配の再配達の依頼など、ちょこちょことやらなきゃいけないことが、次々と発生するので、寝るまで気が休まらない。
この1週間は晩御飯を食べて後片付けを完了したら、リビングで寝落ちし続けていた。妻が暇さえあれば昼寝したり、お茶を入れてのんびりしていた気持ちがわかる。意識して自分でのんびりしないと擦り切れてしまうだろう。
明日退院するので、今後は食器の後片付けくらいは率先して手伝おうと思っている。