クマゼミ

お盆に大阪の妻の実家へ帰省した。息子の大学受験やら娘の高校受験やらが続き、家族揃って帰省することがなかったので3年ぶりだった。

 

妻の両親は、大阪の北部、箕面市で暮らしている。山の麓のマンションの8階なので見晴らしは最高。遠くに万博公園の観覧車やあべのハルカスも見える。風の通り道なのか常に山からの風が通り抜け、これまでは真夏でもほとんどエアコンがいらないくらい涼しい場所だ。ただ今年の暑さは特別でエアコンなしでは暮らせないとのことだった。

 

1日目の夜は妻が高校の同級生との飲み会に出かけたので、お母さんが揚げてくれた夏野菜天ぷらで、お義父さんとビールを呑む。オクラやナス、トマトはお義父さんが家庭菜園で作ったものだ。

 

次の日は朝5時に目が覚め他ので、近所をジョギングする。国道171号沿いを走ってみた。30年前の学生の頃とロードサイド店が連なる風景は変わらない。ただし、お店はほとんどが入れ替わっている。当時のままなのは、餃子の王将ミスタードーナツくらいか。

 

30分ほど軽く走ってマンションに戻る頃、日差しが強くなるとともに蝉が鳴き始める。大阪の蝉はギャンギャンギャンと短い周期で大音量で鳴き続けるので、とにかく耳障りだ。肌にまとわりつくような重たい空気と合間って、何かを急かされているようでイライラさせられる。「大阪は蝉までうるさいのか。」と余計なことを言いたくなる。調べてみると金沢にはあまり生息していない「クマゼミ」がうるさいようだ。

 

昼は、娘はお母さんと万博公園ららぽーとで買い物。私は妻と二人で難波に出かける。バスで千里中央駅まで行き、地下鉄御堂筋線で難波で降りる。とりあえず戎橋筋商店街を歩いてみたら、噂に違わず外国人観光客が多く、ものすごい人波。商店街の通路いっぱいに人が溢れている。豚まんで有名な蓬莱の本店で、豚まんと焼きそばなどを食べてから買い物する。

 

夕方には全員揃って、ステーキハウスで晩御飯の予定があったので、2時間ほどで買い物を切り上げて箕面へ帰る。

 

翌日は朝涼しいうちに、墓参りをして金沢に戻ってきた。両親が少しずつ年を取っていくのを見ると、あと何回お盆を一緒に過ごせるのかと思う。

f:id:benton:20190813102259j:image

f:id:benton:20190813102310j:image

イオンモール新小松

妻と母を誘って娘が参加した合唱コンクールを見た後、お昼ご飯と買い物を兼ねてイオンモール新小松へ行った。

 

まずは1階のレストラン街をうろつくが、行ったのが12時15分すぎということもありどの店も満席。かろうじてインドカレーのお店が1組待ちだったので、ウエイテティングリストに記名して待つ。10分ほどで席に案内される。母はナスカレーとチキンカレーに小さいナンとターメリックライスとサラダにドリンクバーがついたセット。妻はほうれん草とチキンのカレーにナン、食後にアイスチャイ。私はキーマカレーにナン、食後にホットチャイ。

 

本当はマトンのピリヤニを食べたかったのだが、客が自席で注文するために置かれているタブレットの操作方法がよくわからず、ピリヤニを見つけられなかった。残念。

 

日本人向けの味付けで少し物足りないが、カレーが大きな器でたっぷり提供してくれるのがいい。値段もそこそこでいい。

 

食事の後は、モールをぶらぶらする。子供が小さい頃は、毎週のように買い物に出かけていたけれど、車で出かけるのが面倒なので大きなショッピングモールに来るのは久しぶり。モールを歩いている人が多いのに驚いた。遠くが見通せないくらい人が歩いている。妻と母がZARAで買い物しているのを待つ間、通路の壁に寄っかかって買い物に来ている人たちを観察する。お盆ということもあるのか、おじいちゃん、おばあちゃんが若い家族と一緒に歩く姿を見かける。中学、高校生の団体も多数。

 

せっかくなので私も何か買い物しようかと思ってみるが、特に物欲を刺激されるものもない。今自分が欲しいものは何かと考えてみる。歩きやすい靴、リビングに置いてのんびりする一人がけの椅子、スーパーカブ、後は本をたくさんと、大量の本を置くための本棚。こんなもんか。

 

食欲はともかく、物欲やどこか遠くに旅行したいという欲もなくなって来た。代わりに最近思うように無っったのは、心穏やかに静かに過ごしたいということ。昔からそんな傾向があったけれど、要は一人でぼぉーっとするのが楽しくてしょうがないのだ。電車で景色を眺めたり、目的もなく歩き回ったり走ったり、部屋で猫を眺めているのもいい。

ホストファミリー

この夏休み、娘が高校で開催された英語の強化プログラムに参加した。そのプログラムにチューターとして参加していたアメリカ人大学生が我が家に1週間ホームステイした。

 

ニューヨーク、ブルックリン出身の女性。この7月にカリフォルニア工科大学を卒業して、9月からソフトウエアエンジニアとしてシアトルのIT系企業に勤務する予定。両親ともインドからの移民で、ニューヨークで医者をしているとのこと。

 

事前の情報では、豚肉、牛肉、魚は食べられない。豚、牛、魚のだしもダメ。鶏肉、乳製品はOK。とのことだった。せっかく金沢に来るのに魚ダメとはつらいな。毎日どんな料理を用意すればいいんやろと妻と心配していた。実際には、焼き鳥やら唐揚げさえあればそんなに気を使う必要もなかった。ご飯も味噌汁も食べていたし、アイスやケーキも大丈夫だった。

 

家で何お話しすればいいのやらと心配だったが、会えばすぐに誰とでも友達になれる妻の助けもあって、2日もするとお互いに打ち解けて、晩御飯の会話も弾んだ。アメリカの大学の学費が高いという話で盛り上がった。カリフォルニア州立大学の学費は州の住民なら年間2〜3万ドル、州の外から来る学生は年間6万ドルらしい。私立大学だともっと高いところもあるそうだ。彼女も学生ローンの借入残高が3万ドルあるので、これから2年ほどは返済のためにとりあえず働くそうだ。その後は仕事を一旦やめて世界中を旅行したいと言っていた。

 

彼女は大学のアカペラグループに所属していたらしく、娘とはYoutubeでミュージックビデオを見ながら音楽の話をしていた。海外の人も日本人とそんなに変わらない、ちょぼちょぼや、と娘が実感してくれるといいのだが。

 

黒猫

今年の暑さは格別だ。朝6時を過ぎて卯辰山から太陽が顔を出し、日差しが部屋に入ってくると、もう暑くて耐えられない。窓を締め切ってオニーングで日陰を作ってエアコンのスイッチを入れる。さもないと朝飯を汗だくで食べくことになる。

 

うちの黒猫もこの暑さに参っているようだ。涼しいうちはきちっと猫らしく香箱座りなどしているが、暑くなると、だらしなく伸びてしまう。これが猫かと思うような姿勢だ。呼びかけても尻尾の先を動かして応えるだけ。ニャーとも言わない。

f:id:benton:20190811083402j:image

f:id:benton:20190811083420j:image

墓掃除など

お盆休みの初日、朝6時から母と墓掃除をする。はじめに墓前の通路を掃除する。7月にあらあらと草むしりをしてあったので10分程度で完了。

 

バケツに水を組んできてタワシで墓石を磨く。石と石の間に生えている苔を取り除く。細かい隙間は歯ブラシを使う。ロウソク・線香台はススがこびりついていた。一通り綺麗になったところで雑巾で拭きあげる。早朝というのに気温は30度近いのだろう。日差しが強くなるにつれて、汗が顔から吹き出す。気がついたらTシャツは汗だくだ。

 

4、5組の家族が同じように墓掃除をしている。手入れがされておらず、雑草に覆われたしまった墓が年々増えているような気がする。

 

1時間ほどで墓掃除を終え実家に戻る。小屋に散乱しているダンボールをたたんで、知り合いからもらった大量のジャガイモの整理。一部はこの暑さで腐っていたので捨てる。その後、母が今年作った梅干しが入った甕を2階に上げる。

日本社会のしくみ 雇用・教育・福祉の歴史社会学

自分が育った時代、つまり小学校から大学生くらいまでの社会の状況が、自分にとっての当たり前として知らず知らずのうちに刷り込まれている。

 

私は1966年生まれ、小学校入学が1973年で大学卒業が1991年。高度成長の末期に小学生になり、オイルショックを経て、ジャパンアズナンバーワンと日本経済が一番調子が良かった頃、一億総中流と言われ所得格差が1番小さかった頃に中学高校時代を過ごし、バブルの絶頂期に大学時代。バブル崩壊とともに就職した。

 

未だに経済は年々成長して暮らしは良くなっていくもの、大学生は勉強もせずに遊んでいるもの、就職活動は適当にやっても仕事は向こうからやってくるものという意識がどこかに染みついている。だから最近の大学生が在学中から専門学校に通って資格をとっているというのを聞くと驚く。新入社員が仕事のこと、自分のキャリアのことを真面目に話すとびっくりする。

 

この本は、新卒一括採用や終身雇用、企業別の組合、正規雇用と非正規雇用の格差などの今の日本の雇用の仕組みが、なぜそうなっているのかを明治時代からの歴史を踏まえて説明する。そして、雇用の仕組みが教育や福祉の制度にどのような影響し、また影響されてきたかについての解説もある。

 

終身雇用や新卒一括採用などのいわゆる日本型の雇用慣行の起源は、遡れば、明治の官公庁や軍隊の職能と職務による人事評価、処遇に始まりがある。それが民間企業にも採用され、戦争の総動員体制、戦後の組合との折衝を経て、完成したのが1960年代後半の高度成長期。高度成長が終わり低成長となると、終身雇用の正社員を維持していく人件費の負担に耐えられず、大企業は女性や高齢者などの非正規社員を増やしていく。さらに、バブルの崩壊と団塊の世代ジュニアが大学を卒業する時期も重なり、大学を卒業しても非正規社員として働かざるを得なくなる。

 

日本型雇用慣行が完成しうまく機能していたのは、たかだか十数年。その十数年が、ちょうど私の小学校から大学時代にすっぽり当てはまる。その頃の時代の雰囲気が未だに自分に染みついている。そして今も日本型雇用慣行は高齢者や女性、外国人などの非正規社員を活用することで維持されている。根本的には変わっていない。

 

雇用について議論する際の、しっかりとした足場となる根拠を提供してくれる内容。読んでおくべき本です。

 

ランニング50分

5時30分に家を出る。猛暑が続くこの時期は、日差しが強くなる7時以降は30度以上になるので、走れるのは早朝か夜しかない。瓢箪町から別院通りを通って金沢駅へ、そこから三社、長土塀を通って犀川へ、河川敷を上流に向かい桜橋から河川敷を離れて、鱗町、本多町、広坂、兼六園下、東山から浅野川下流に進んで帰宅。50分。

 

キロ7〜8分くらいのペースで走ると膝の負担にもならず体調もいい。もう無理してフルマラソンを走ろうとは思わないが、週に2、3回は走りたい。

車検

我が家のエクストレイルの車検がようやく完了した。一泊二日で終わるかと思っていたところが、タイミングベルトの劣化、燃料パイプからのガソリン漏れ、ドライブシャフトのブーツ破損、前輪を保持している部品にガタが出ているなどなど、修理が必要なところが多数見つかり、作業に1週間もかかったのだ。当然、費用もかさんで、合計で33万円もかかってしまった。

 

軽自動車を新車で買うと200万円近く必要なことを思えば、30万円の追加出費で、これから2年安心して乗れるのは、考えようによってはお得かもしれないと、自分を納得させながらディーラーで支払いを済ませて車を引き取ってきた。

 

きっちり整備してもらったからか、エンジン音から路面からハンドルに伝わる感触まで非常に滑らか。シャカシャカというブレーキを引きづる音も消えた。経年劣化で曇っていたヘッドライトカバーも磨いて透明になったので夜の運転も安心。17年で17万キロ走ったこの車、こうなったら意地でも25万キロくらいまでは使いたい。

五箇山

娘が通っている高校の英語のサマーキャンプの先生としてアメリカから来日、ホームステイで我が家に1週間滞在してくれた大学生のアニスを連れて五箇山に行ってきた。

 

昼間に散策するのは余りにも暑いので、午後3時30分ごろに家を出て白川郷に向かう。車中で白川郷について調べてみると、いろいろな施設は午後5時に閉館するとのことだったので、少し手前の五箇山に行き先を変更した。到着したのが4時30分、ここの五箇山民俗館と塩硝の館も5時閉館ということで慌てて見学する。塩硝というのは黒色火薬の原料。囲炉裏の側に穴を掘り人尿や鳥、蚕の糞、そば殻、土を積み重ねて4、5年かけて発酵させて、それを桶に入れて水と混ぜ合わせて、その溶液を煮詰めると結晶化して採取できるそうだ。この塩硝と木炭、硫黄と混ぜると黒色火薬になるのだ。

 

塩硝の館を出ると、すでに5時を過ぎていた。たくさんいた観光客もいなくなり、この菅沼集落を歩いているのは我々だけ。地元の人が所々で畑仕事をしていた。夕暮れ時の静かな合掌造りの集落を散策できてよかった。

 

アニスにとっては、田んぼに青々と生い茂る稲が興味深かったようで、田んぼの写真を何枚も撮っていた。また、「米というのは何処にできるのか? 地下か?」と聞くのでグーグルで、稲穂が深々と頭を垂れている写真を検索して見せた。

 

お土産物屋さんで五平餅を買って3人で食べる。アニスも五平餅の甘辛味噌味が好きなようで、一人で一本を食べていた

f:id:benton:20190804080023j:image

f:id:benton:20190804080035j:image

f:id:benton:20190804080111j:image

f:id:benton:20190804080138j:image

f:id:benton:20190804080148j:image

ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス

小学校の図書館司書をやっている妻に誘われて見てきた。上映時間が3時間25分、途中に休憩もある長いドキュメンタリー映画。ニューヨーク公共図書館の表も裏もたっぷり見せてくれます。運営方針や予算の優先順位を議論する運営会議、地域の子供たちを集めて読み書き教室やロボット教室、リチャード・ドーキンスエルビス・コステロも登場する講演会、詩の朗読、地域のお年寄りを集めたダンス教室、就職説明会。などなど。

 

登場する人たちが自分の考えを、熱く丁寧に語り続ける映像がずっと続きます。言わなくてもわかるでしょ、というのはなし。語り手が丁寧に説明して、聞いてる方もちゃんと受け止めるやりとりを見ていると、良くも悪くもアメリカだなと思う。

 

利用者が調べ物したり、勉強したり、一人で取り組む真剣な表情がいい。講演を聴きながら、何かが閃いたのか、腹に落ちた時の、かすかにポッと明るくなる様子もいい。

 

3時間25分はさすがに腰が痛くなったけれど、図書館好きにはおすすめです。

moviola.jp

サルサ

ちょって早めの夏休みをとった。午前中はリビングに掃除機をかけて床を水拭きする。なんとなく脂っこくなっていた汚れが取れ、裸足で歩いた時の感触がサラリとして気持ちいい。

 

午後は頂き物の大量のトマトを使ってサルサソースを作る。玉ねぎとトマト、にんにくをみじん切りにして、混ぜて、塩胡椒、酢、砂糖で味付けして完成。パクチーを入れるとそれらしくなるのだけれど、これだけでも十分おいしい。

 

駅前のカルディでトルティーヤチップスとビールを買ってきて本読みながらつまむ。

 

f:id:benton:20190720071755j:image

スペイン風オムレツ

私と妻の両方の実家からジャガイモをたくさんもらった。保存がきくので慌てて食べる必要もないのだけれど、普段はあまり作らないジャガイモ料理を作ってみることにした。

 

ジャガイモ料理といえば、以前から一度きちんと作ってみたかったスペイン風オムレツ。ネットで本場の作り方だというレシピを参考にしてみた。

 

玉ねぎとジャガイモを1センチ角くらいにざく切りにする。多めのオリーブオイルで玉ねぎを炒め煮にする。そこにジャガイモを加えて弱火で火が通ってほっくりするまで炒める。卵4個をボウルに溶いておいた中に炒めた玉ねぎとジャガイモを入れて混ぜる。

 

あらためてフライパンに油を引いて卵とジャガイモ、玉ねぎを混ぜたものを焼く。今回は具の量に対して卵が少なかったようで、うまく固まらずグダグダになってしまった。

 

グダグダになったけれど味は同じ。玉ねぎの甘みが効いて大変おいしい。

f:id:benton:20190720071714j:image

青虫は一度溶けて蝶になる:私・世界・人生のパラダイムシフト

全てが順調に進んでいて、「俺ってすごいな」と全能感いっぱいの時期と、何もうまくいかなくて、自分はダメな人間だ、存在する意義すらないと感じてしまう時期。その両極端を状況jによって行ったり来たりしていたように思う。落ち込む時はとことん自分が嫌になる。毎日が楽しくない。

 

「私」と「世界」を別個の対立する実体と考え、私がうまく世界をコントロールできていると思えば全能感、うまくコントロールできなければ劣等感を抱くことになる。一貫して藤田一照さんがおっしゃるのは、私と世界は別々の存在でなく繋がっている。私のあり方が世界をそのように立ち上がらせる。ということ。

 

「私」を海に立つ波に例えていたのがわかりやすかった。1つ1つの波が世の中の人々の「私」。いろんな大きさや形の波があるけれど、波は海全体で繋がっている、しかもその時々の海の状態で変化していく。波は大きくなったり小さくなったりするけれど、海全体の状況次第で移り変わっていく。

 

だから状況を一喜一憂しない。リラックスして、状況を観察して、受け入れて、それから反応してみなさいという。各章の終わりに簡単なワークがあるので、少し時間をかけてやってみると面白いです。

青虫は一度溶けて蝶になる: 私・世界・人生のパラダイムシフト

青虫は一度溶けて蝶になる: 私・世界・人生のパラダイムシフト

 

 

インフォメーション 情報技術の人類史

 情報を伝える。ということに関する諸々をまとめた本です。

 

まずは、アフリカのトーキングドラムについて。次に、語って伝えること、文字で伝えること、辞書の編纂、電信(モールス信号)で伝える、電話、コンピュータなどなど。

 

これらの個別の通信方法を紹介しつつ、全体がクロード・シャノンの「通信の数学的な一理論」の説明にもなっている。

 

扱うテーマが幅広いけれど、それぞれの章が面白い。

インフォメーション―情報技術の人類史

インフォメーション―情報技術の人類史

 

 

平成史【完全版】

 元号が変わったからって何が変わるんだ。と思いつつも平成の30年間はどんな時代だったのかと振り返りたくなり、この本を手に取った。

 

この本では昭和の後期(昭和33年から64年まで)は、製造業中心の産業構造が確立した時代であり、平成はその製造業中心の仕組みが通用しなくなった時代と位置付ける。1961年に第2次産業の就業人口が初めて第1次産業を上回る。その後第2次産業に携わる人は増え続け1992年にピークを迎える。

 

私は1966年生まれ、1991年に大学を卒業しているので、まさに日本の製造業が一番華やかだった頃に育ってバブルの終了とともに就職したことになる。実感としては96年くらいまではバブルの余韻はあった。97年の金融危機以降のことはあまり印象に残っていない。またいつか経済は回復するんだろうと思い続けていたら平成が終わってしまったのが実感だ。多分、平成の終わりは昭和の記憶を抱いてきた人たちがいなくなっていくことなんだと思う。

 

平成を振り返って一区切りつけたい人へおすすめです。

平成史【完全版】

平成史【完全版】