Invent & Wander ージェフ・ベゾス Collected Writings

株主に送った手紙や、大学の卒業式でのスピーチなど、アマゾンの創業者 ジェフ・ベゾスが書いた文章をまとめた本。
 
ジェフ・ベゾスは、大事なことを最初からずっと言い続けている。創業間もない頃の株主への手紙1997年の「長期がすべて」では、インターネットでの書籍販売というこれまでになかった新分野でトップに立つために、長期的な視点で大胆に投資をし続けていく。「もし決算報告の見栄えをよくするか、将来キャッシュフローの現在価値を最大化するかの二者択一を迫られたら、キャッシュフローを選びます。」と断言する。そして、もしこの方針が気に入らないのなら、他の会社に投資してくださいと。
 
1998年の手紙「こだわり」では、世界で最もお客様中心の企業を築くと断言、お客様は品揃えの豊富さ、使いやすさ、低価格、サービスの便利さを評価してくれているのだから、これらを達成するために巨額の投資を続けていくこと断言する。とにかく便利に安くを実現するために、赤字になってでも投資していく。マーケットが巨大なので、売上拡大して固定費を回収できるようになれば、後で利益がついてくる。
 
書籍は品数が多いので、リアルの店舗ではその全てを陳列することはできないけれど、ネット通販ならできる、それにほんなら在庫が腐ることもない。という今思えばごく当たり前の素直な考えで、ネットでの本の販売を始め、後はお客さんの安く、早く、便利にを実現するために、最初は、赤字覚悟で市場での優位を確立するために巨額の投資を続ける。サーバーやシステムは固定費なので売上高が一定の規模を上回れば、利益は必ずでるという目論見だ。
 
愚直に、この方針に従って運営して今の巨大ビジネスになったのだ。振り返れば、何ということのない、あっけないくらい素直な戦略だ。もちろん、
実際にそれをやりきった人が他にいなかったのだろう。
 
私は、1995年にサンノゼに住んでいた。そもそもアメリカは本屋が少なかったのと、本屋の配置がわからず、縦になった背表紙のタイトルを判読するのが大変だったので、Amazonの噂を聞いて何度か使ったことがある。当時から、運送中の荷物がどこにあるのかトラッキングできるようになっていて便利だった。この本によれば、当時はベゾス自身が、ガレージで商品の箱詰めと発送をしていたらしい。

家をつくる

ツイッター上で紹介されているのを見て、名前と表紙のたたずまいに惹かれた。著者の王澍さんは中国人の建築家として初めて建築界のノーベル賞ともいわれるプリツカー賞をとったというのも興味を惹かれた。1963年生まれと私と年代も近い。
 
内容は著者の建築について考え方を綴ったエッセー、自身が手がけた杭州の「中国美術学院象山キャンパス」と「寧波美術館」の建築の過程の紹介。写真もたくさんあって文章と照らし合わせて読みやすい。
 
自分は文人である。建物を建築するのでなく園林を含めて世界を造作するのだ。刺激的な言葉が続く。1990年台に中国経済が驚異的な発展ととげる中で、伝統的な中国の建物が根こそぎ一掃され、高層マンションが立ち並ぶ街に作り変えられてしまったことに危機感をいだき、建築家としての活動を一時やめていたともある。
 
中国美術学院象山キャンパスの設計にあたっては、山水画に描かれる建物のように自然の中になじんだ、自然環境にひっそりと一体化した建築であることをめざしたという。敷地内にもともとあった標高50メートルほどの象山には手を付けずに、象山の北側と南側に建物を集中して配置する。その頃に多く取り壊された昔ながらの中国の建物の屋根瓦や石材などの廃材を建物に埋め込んで再利用。敷地内に溜池や小川、田んぼを残し、田んぼでは近所の農家が耕作する。窓は象山の見え方を意識して設置する。
 
写真をみると建物の屋根は瓦葺で、壁には植物が生い茂り、窓からは象山を望む。山水画に入り込んだようなキャンパスだ。
 
寧波美術館は、使われなくなったフェリーターミナルをリノベーションした建物。外観は杉板で覆われ、下部は再利用された瓦や石材が埋め込まれている。
 
寧波は明の時代の勘合貿易では、日本からの貿易船の受入港となっった土地。杭州紹興も近いので、いつか行ってみたい。蘇州の園林は一度職場の同僚と行ったことがあるが、山水画と王澍さんの建築を想像しながら、もう一度ひとりでじっくり巡ってみたい。

久しぶりの散歩

9月になってめっきり涼しくなった。今日は直射日光のもとでは汗ばむけれど、日陰に入ると涼しい。ようやく、ぶらぶら散歩して心地よい気候になってきたので、久しぶりに街を徘徊にでかける。
 
12時過ぎに家をでて、東山へ向かう。東山からは浅野川沿いを上流に向かう。田上から小立野台を登る。石引商店街、本多の森ホール、県立美術館を経由して、広坂へ。香林坊あたりは人が少なくガランとしている。
 
武蔵のドトールに入りアイスカフェラテで休憩。エムザで塩辛といちじくゼリーを購入して帰宅。歩行時間3時間。

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中国の歴史10 ラストエンペラーと近代中国 清末中華民

清の末期から日中戦争までの巻。
 
この巻で印象に残ったのは、1936年12月の西安事件だ。これは、共産軍掃討にあたっていた張学良らが、視察にきた蒋介石拉致監禁し、共産党討伐の停止を認めさせた事件だ。蒋介石は拉致された後も、強硬に共産党討伐の停止を受け入れなかったが、共産党周恩来蒋介石婦人の宋美齢らによる開放交渉で国民党による共産党討伐停止が合意され、蒋介石が開放される。交渉の中で蒋介石周恩来が直接会っている。
 
不思議なのは、蒋介石に対して謀反を起こした張学良が、解放された蒋介石についていき南京まで行ったことだ。当然、張学良は南京で逮捕、軍法会議にかけられる処刑が決定される。わざわざ処罰されるために自ら南京にいったようなものだ。張学良は、その後、罪を減じられ軟禁される。国民党が台湾に渡ってからも台湾で軟禁され続け、2001年にハワイで亡くなっている。
 
西安事件で何が話し合われたのか? 蒋介石、張学良を含め関係者は、詳しいことは何も語らず真相は闇の中。
 
1990年にNHKが張学良にインタビューしている。その一部がYouTubeにアップされている。蒋介石周恩来の直接会談について詳細を聞かれると、張学良は断固とした態度で、もうその話は止めましょうと言っている。
その後の、日中戦争共産党と国民党の勢力争いの行方に決定的な影響を与えた事件だけに、何があったのか気になる。

熱にうなされ猫定

先週の水曜日、仕事から帰ってきて晩ごはんを食べて、テレビを見ていると体の調子がどうもおかしい。風邪をひいたような予感がして、早めにシャワーを浴びてベッドに入った。9時頃、頭痛を感じ、体温を測ると37.5度。やはり風邪か、明日までに直さなきゃと思い部屋を暗くして本格的に寝る。2時間ほどたって顔が火照るのを感じて、再度検温すると、38.5度。さらに1時間後に計ると、39.5度。これはなんだか尋常ではない。もしかしてコロナにかかったか、と思い、妻には別の部屋で寝るようにいって、朝まで寝たり起きたりを繰り返し悶々と過ごす。
 
朝7時から、県の発熱相談センターに電話してみるが全くつながらない。3時間ほど何度もかけてみたが、「只今混み合っておりますので、しばらくしてからおかけなおしください。」のアナウンスを聞くばかり。妻も仕事に行けないし、娘も高校にいけない。なんとかPCR検査を早くして白黒はっきりしなければと思い、しばらく電話をかけ続けるが全くつながらない。
 
仕方ないので、近所の病院に直接電話して、昨晩から高熱が続いていることを告げると、すぐ来てくださいとの指示。さっそく、着替えて念の為歩いて病院に向かう。発熱外来コーナーに通されて、問診票を記入し、体温と酸素飽和度を計測。体温は39度、酸素飽和度は96%。しばらく待って屋外のテントへ案内され、鼻の穴に綿棒を突っ込んで検体をとってPCR検査をしてもらう。この病院でやっているのは、NEAR法という種類のPCR検査。30分ほどで結果がわかるということで、待合室で待機。県外にでたり、外食もしていないし、どこで感染したのか、陽性だったら職場へ2週間分の行動履歴を提出しなきゃいけない、先週から打ち合わせで沢山の人にあっているので、全部書き出すだけで大変だ。娘もしばらく学校にいけなくなるし、合唱部の練習も中止になるのか。当然、妻も仕事休まなければいけない。
 
などと、陽性になったらどうしようと、心配の種がどんどんふくらむ。待合室に掲示されている文書によると、陽性になったら病院から保健所へ連絡されて、私は保健所から連絡があるまで自宅待機になるそうだ。妻と娘を感染させていませんように。と、祈るような気持ちで結果を待つ。
 
30分ほどで呼び出され、診察しつへ入る。若い男性の先生がモニターを見ながら話しかける。
「昨日のお昼ぐらいから、尿が出にくくなったそうですが、今はどうですか。」
「今も、おしっこすると痛くて、出にくいです。頻尿です。」
「鼠径部や背中に痛みはないですか?」
「痛いというほではないけど、違和感あります。」
なかなか、検査の結果を言ってくれないので、こちらから「どうでしたか?」と聞くと、あっさい
「陰性でした。」と結果を書いた紙を渡してくれた。
 
ひとまずは安心したものの、今度はこの高熱の原因が気になる。先生はあれこれ聞いてくれた割には、「泌尿器系の病気かもしれませんが、しばらく様子見ましょう。解熱剤をだしときます。」ということで診察は終了。
 
薬局で薬をもらって帰宅し、妻に陰性だったことを伝える。職場にも電話して事情を説明する。もしものことも考えて、熱が下がるまでは家庭内隔離で過ごす。あいかわらず38度台後半の体温なので、ベッドに潜り込んで寝る。ネットでおしっこが出にくくなる症状を検索すると、どうも膀胱炎らしい。確かに、昨日の午後から急におしっこに何度も行きたくなり、トイレに行くんだけど少量しかでない。しかも尿を出すときに痛かった。
 
しばらく様子みるしかないかとあきらめて寝る。木曜日はずっと38度台。金曜日の明け方にようやく37度台になり、おしっこの具合もかなり回復した。金曜の夕方にはようやく36度台にもどり体も楽になる。
 
コロナのワクチン2回めの接種が土曜の朝で予約してあったので、厚労省の相談窓口に電話して、どうすればよいか聞く。土曜の朝に平熱であればワクチンうってもよいとのこと。副反応で発熱したら再び発熱したらつらいなと思いつつ寝る。
 
土曜日は午前9時30分に近所の医院でワクチン接種。ファイザー社製なので副反応は軽いといいなと思いつつ帰宅。昼ごはんを食べて夕方までは普通に過ごしていたが、6時ごろから発熱。6時には37度だっったが、7時には、38度、8時には39度、9時に39度5分と天井知らずにあがっていく。体はそんなに辛くはないが、39度超えにはびっくりした。とにかく寝る。
 
日曜日の朝は38度台、午後に37度台、夜になってようやく平熱にもどった。
 
月曜日は少し体がだるかったが出勤した。頭がぼーっとして仕事が手につかなかったが、なんとか一日過ごす。火曜日も同じ。水曜日になってようやく体調がもとに戻った。
 
水曜日から日曜日まで、断続的に5日間、高熱が続いたからなのか体力をかなり消耗した。体重は2キロほど減っていた。
 
ベッドに横になっている間に本をたっぷり読めると思っていたが、38度以上になると、本を読もうという気にもならない。せめて、Youtubeでお笑いの動画を見ようかとも思ったが、大きな声でツッコミを入れるところが頭にガンガン響いて耐えられない。落語なら大丈夫と思い志ん朝の,唐茄子屋政談を聞いてみるが声の甲高いところが響いてつらい。なんとか最後まで通しで聞けたのが、三遊亭圓生の猫定。ボソボソと静かに語るので染みるように頭に入っていった。
 

茄子のオランダ煮

土曜の午前、妻と金沢市農協がやっている直売所「ほがらか村」に行ってきた。駐車場はほぼ満車で、入口近くに、さつまいもドーナツとレモネードを売るキッチンカーが営業中。5,6人の行列ができている。結構な賑わいだ。
 
お盆前には桃が並んでいたお店の一番目立つところに、今日は梨が並んでいる。家族3人とも梨が好きなので2袋、10個をかごに入れる。
 
茄子が安い。ひと袋に5個入って、100円〜180円くらい。浅漬け用に水なす2袋、オランダ煮用に傷ありと記された一袋100円のを3袋購入。その他は、レタス1個、れんこん、青唐辛子、トマト6個、豆腐2丁、お昼ご飯用に私は赤飯、妻は明太子ご飯、串カツを買い道草もせず帰宅。
 
お昼ごはん前に茄子をやっつけておこうと、まずは水なす10個を縦に四つ割にして浅漬けの素と水でタッパーに漬けて冷蔵庫へ。
 
オランダ煮は、母に教えてもらった方法でつくる。茄子はヘタの部分を切り落としてから、早く柔らかくなるように包丁で5ミリ間隔くらいに切れ目をいれる。切れ目を入れた茄子を、塩を入れて沸かしたお湯で15分程ゆでる。ゆだった茄子を味醂、砂糖、鷹の爪で味を調整しためんつゆで煮る。砂糖で甘めに、唐辛子でパンチを効かせるイメージの味付けにする。茄子が芯まで柔らかくなって箸ではつまめなくなるくらい煮る。煮上がったら粗熱が取れてから冷蔵庫に入れてキンキンに冷やす。
 
煮汁が染み込んで箸でつまむと崩れそうなオランダ煮は、噛まなくても飲み込める。唐辛子が食欲を刺激するのか、いくらでも食べられる。ひとりで5個はいけるだろう。熱々のご飯に汁ごとのっけて食べてもいい。そうめんと一緒に食べてもいい。
 
油で揚げてから煮る方法もあるのだが、あっさりとたくさん食べられるので最近は塩茹での方が好み。田舎では夏になると知り合いから食べきれないくらい茄子をもらうので、母はよく大鉢に山盛りにオランダ煮を作り、子供の頃は半分げんなりしながら食べていたものだ。
 
今は、この唐辛子が効いた甘じょっぱい味がなつかしく、この時期になると無性に食べたくなり、年に一度は自分で作っている。
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気分の流れ

連日35度近くの暑さが続いていたが、お盆の雨のあとはめっきり涼しくなった。日の出が遅くなり、朝焼けに浮かぶ雲も秋らしい形になった。
 
毎日日記を書くつもりが一週間空いた。仕事が始まると、どうしても仕事に意識が向いてしまい、それ以外のことをやろうという気力が削がれてしまう。
 
今日、坐るかやめとくか、走るかやめとくか、日記を書くためにパソコンのスイッチを入れるかやめとくか。選択は些細なことで左右される。なんとなく気分がいいと前向きの微かな決断をひとつする。不思議なことに、その決断ひとつ下すだけで、前向きの流れが生まれる。すべてが前向きに転がりはじめる。
 
朝、眠いながらもばっと布団から出て顔を洗う、という決断をする。顔を洗うと、じゃあ次に坐ってみようかという気分になる。坐るとちょっとむずかしい本でも読んでみようというき気になる。本の次は日記でも書いてみようかという気になる。
 
朝、布団の中で鬱々としていたはずが、そんな流れで、結構機嫌良く一日を過ごしていたりする。気分の流れは微妙であてにならないものだ。

酒を飲まない日々

4月4日に酒を飲まなくなって4ヶ月が過ぎた。それまでは、毎日何かしらの酒を飲んでいたが、今のところなんともない。酒を飲みたくてイライラするとか、ものすごい意志の力で飲酒を我慢しているわけでもない。特に飲みたいとも思わなくなった。テレビでビールのCMを見かけてもなんとも思わない。タレントさんがグラスからビールをごくごくと喉をならしながらのんで、「プッはぁ~、うまぁい。」などと大げさにやればやるほど、見ているこちらは。「シュワシュワして苦い飲み物に大企業が莫大な広告費をかけて、優秀な社員を総動員して売り込むんだ。」と冷めた目でみてしまう。
 
人間ドックを受診した8月2日に、こんな日くらい少し飲んでもいいかなと思い、500mlの缶ビールを飲んでみた。確かに喉がスッキリした美味しかったが、スッキリしたいなら炭酸水でもいいんじゃないかとも感じた。その後は飲んでいない。
 
今はもう慣れてしまって実感が薄れつつあるが、体調は良くなった。毎日飲んでいる時はわからなかったが、お酒は体に結構な負担をかけている。少しだけ飲んでも眠りが浅くなり、翌日は体がだるいのだ。
 
それに加えて、酒を飲まないと気分が安定する。酔っている時は気分が高揚して饒舌になり、上機嫌なのだが、翌朝はその反動で非常に落ち込む。体調自体が優れないこともあって、非常に気分が落ち込み、悲観的な気分で毎日職場に向かっていた。
 
自由に使える時間が長くなった。平日は、晩酌を始めると1時間以上食卓に座ってグダグダ過ごし、そのまま寝落ちしていたが、夕食を食べるだけなら30分以内に終わる。空いた時間は本を読める。朝の目覚めが爽やかなので、早起きして勉強でもしようかという気持ちになる。
 
酒を飲まなくなると体重が減るかと期待していたが、今のところ特に変化なし。理由はわかっている。毎日夕食技にお酒を飲まないのだからと言い訳して、甘いものを食べているからだ。アイスを食べることが多い。
 
去年くらいから、体が疲れやすいと感じていた。毎日が体がだるくて、蕁麻疹が頻繁にでるようになった。なんとかしなきゃと考え始めたのがお酒を飲まなくなったきっかけだ。年齢がすすむにつれて酒量が増えたり、休日に昼から飲み始めることが増えたりと、もしかしたら、アルコールに依存しているんじゃないかと薄々感じるようになったこともある。
 
そんなこともあって、実は去年「禁酒セラピー」という本を買って途中まで読んでいたのだ。これはアレン・カーという人の著書で、彼は別に「禁煙セラピー」という本も書いている。15年前にこの「禁煙セラピー」を読んで、私はタバコを吸わない人になったので、今回も「禁酒セラピー」を買ったのだ。
 
「禁煙セラピー」も「禁酒セラピー」も手法は同じで、酒で人とコミュニケーションが円滑になるとか、気分が良くなるとか、飲酒のメリットとされているものを、「そんなことないよ。それは酒なしでも実現できるよ。それは勘違いだよ、本当は体を蝕んでいるんだよ。」とひとつづつ潰していく。返す刀で、アルコール依存の恐ろしさを説明する。
 
新書一冊を使って繰り返しそんなことが書いてあるだけなのだが、私には合うのか、タバコもお酒も特につらい思いをすることなくやめた。
 
お酒に関してはコロナで飲み会に誘われる機会が全くなくなったことも幸いしているので、今後どうなるかわからないが、今の所は憑き物が落ちたようにお酒に興味がなくなってしまった。これまでであれば生きる喜びの半分を失ったような気がしたはずなのだが、そうでもない。明らかに体調がいいのでこのまましばらく続けようと思っている。

中国の歴史8 疾駆する草原の征服者 遼 西夏 金 元

講談社学術文庫の「中国の歴史」は、各巻の著者が各自の専門領域への思い入れたっぷり注ぎ込んで、担当の時代を語ってくれるので、各巻ごとに個性があって読み物としても面白い。
 
第8巻は、中国の王朝の名前でいうと元の時代。著者はそこに至るまでの北方の遊牧民族の歴史から説き起こす。はじまりは、唐の時代の安史の乱から。
 
著者は、遊牧民が中国の歴史に与えた影響の大きさを強調する。中原の王朝交代の歴史ばかりを追っかけていると、突厥、キタン、女真、沙陀など、華北平原の北側に暮らす遊牧民族の影響を過小評価してしまうという。公的な歴史書では時の政権が、事後に自分の正当性を主張するのに都合よく書くことを取捨選択するので、遊牧民の話を無視、あるいは意識的に貶めて記録される。そのことを前提に資料を読まないと見落としてしまうことがあるのだ。
 
唐の時代から、北や中央アジアの人々は安禄山のように政権中枢にかかわっていたし、中原の政府は遊牧民といかにうまく付き合うかが大きな命題となっていた。キタンは、漢族の官僚をもうまく取り込みながら、遼の国を200年近く維持する。その経験がモンゴルの世界帝国につながるのだ。
 
元がはじめて、中原、江南、南海、今の四川省雲南省あたり、北方、チベットを一体として支配したことにより、現在の中華人民共和国につながる、中国の支配領域のイメージが形成された。
 
また、クビライがつくったユーラシア大陸全体を股にかけた交易の仕組みは、元王朝に莫大な利益をもたらした。中央アジアシルクロードと、南部の海岸沿いの都市を窓口とする海の通商路を国家としてバックアップし、イスラム商人に交易を任せる。そして、イスラム商人から徴税する。
 
モンゴル帝国の傘のもとで、交易にともなう人の往来はたいそう盛んだったようで、マルコポーロがやってきたのもこの時代、イスラム諸国とヨーロッパとの交易が盛んになったのもこの時代だ。そして、ペストが大流行したのもこの時代。ペストの流行と人の往来が激しくなることに関係があったのだろうか。

スパイスカレー、マカロニサラダ

昨日、久しぶりにスパイスカレーを作った。トマト缶を2つ、玉ねぎ約1キロで、16人分の基本のマサラ(カレーのベースのようなもの)を仕込んだ。晩ごはんは、これを使って鶏ひき肉と茄子のキーマカレーを作った。下記で紹介されているレシピどおりに作る。
カレーの付け合せにマカロニサラダも作った。ねじねじのショートパスタを使い、具はツナ缶とコーン、玉ねぎの薄切りだ。これは,東京浅草橋の「西口やきとん」のマカロニサラダを真似。胡椒をたっぷりと聞かせるとうまい。
 
午前中にJAほがらか村へ野菜の買い出しにいったら茄子が安かった。大きめのが6つ入って100円だったので、3袋購入。ついでに茄子漬の素も買って、ナスの漬物を仕込んだ。ジップロックに縦に4つ割にしたナスと、漬物の素、水を入れて揉み込むだけ。ご飯のお供にいい。残りの茄子は、オランダ煮にしてよく冷やして食べようと思う。
 
オリンピックが終わったと思ったら、今日から甲子園の野球が始まるらしい。娘の話や、小学校で働いている妻の話を聞くと、学校のコロナ対策がよくわからない。せっかく夏休み期間なんだから、夏休み中の行事をすべて中止して、生徒同士の接触をなくすようにすればいいのにと思うのだが、対応は学校ごとに違うようだ。登校日をなくした学校もあれば、通常通りの学校もある。高校は部活動は基本OKのようだ。
 
甲子園も予定通りにやるのだから、部活動を制限する理由もないのか。オフィスもスーパーやデパートも通常営業してるのだから学校だけが制限する理由もないのだろう。学校を閉鎖したらしたで困る人もいるだろう。私が心配しすぎなのか、それとも世間はある程度のコロナ感染のリスクを受け入れることで納得済みなのだろうか。
 
世間はどうであれ、コロナ後遺症もあってつらそうなので、ワクチン接種が終わるまではおこもり生活は続けるつもり。

中国の歴史7 中国思想と宗教の奔流 宋朝

第7巻は宋の時代のお話。日本の伝統文化と呼ばれるもののルーツの多くは宋の時代にあることがよくわかった。例えば、禅や阿弥陀信仰などの鎌倉仏教、儒教の教え、抹茶を飲むこと、皇后陛下が宮中で養蚕を手がけているように、稲作と養蚕を農業経営の基本とすることは、宋の影響だ。
 
遣唐使の廃止後にも、貿易に関わる商人や、最新の仏教を学ぶ僧侶などたくさんの人達が、宋を訪れ文物や情報をもたらしている。中国、更に広げてアジアの歴史の流れの中で、日本の歴史を位置づけてみると、同時代のアジアの動きが日本にも逐次影響を与えていることがよくわかる。
 
私個人としては、宋といえば青磁の名品を生み出した時代。東京国立博物館の馬蝗絆という茶碗が好きで何度見見にいっ。この茶碗は、かつて室町時代の将軍足利義政がこの茶碗を所持していたときに,ひび割れが生じたため,代わるものを中国に求めたところ,明時代の中国にはもはやそのようなものはなく,鉄の鎹でひび割れを止めて送り返してきたという。この鎹を大きな蝗に見立てて,馬蝗絆と名づけられたのだ。
 
馬蝗絆の写真(東京国立博物館

55歳の誕生日

今日は誕生日。55歳になった。自分の父親の55歳の頃の姿を思い浮かべてみると、もう正真正銘のおじさんだったなと思う。自分を鏡でみてもあまり自覚できないが、傍からみればかなりくたびれた高齢の男性なんだろう。
 
体力はめっきり衰えた。一日仕事すると夕方にはヘトヘトに疲れる。家で晩ごはんを食べると眠けがおそってくる。9時には起きていられない。集中力も衰えた。難しい本がすっと頭に入ってこないので、何度も読み返す。何時間も続けて本を読めなくなった。1時間くらいがせいぜい。食欲も衰えた。金沢カレーの大盛りなんぞを、ランチに食べてしまうと午後は使いものにならない。カレー臭いゲップを繰り返す。血糖値急上昇で気絶しそうになる。
 
先週、会社の人事課から定年後のライフプランを考えるためのガイドブックをが送られてきた。読んでみておどろいた。「人生100年時代。元気に80歳まで働けるよう、今までのキャリアを振り返り、定年後のライフプランをたてましょう。」えっ、80歳まで働かなきゃいけないの。
 
それはともかくとして、退職後の20年、100歳まで生きると40年、何して暮らすんだろうと思う。半日働いて、半日好きなことするくらいが、心穏やかにすごすためにはちょうどいいバランスだと思っているんだが、そのくらいの仕事で暮らしていけるだろうか。貯金はどのくらいしておけばいいんだろうか。いろいろ心配になる。
 
その前に、実質定年までの残り5年をどうやってすごそうか。
 
今の世の中のどうしようもない状況をつくったのは、私たち世代の責任だと思う。失われた20年だか30年、上の世代に対抗することもなく、唯々諾々と従ってきたの私たちだ。しかし、今からなにかしようと思っても、既に実務は部下にまかせきりで、もはや、彼らがいなければ何もできない。そのくせ変に口をはさんで細かいところまで指図しないといられないのは見苦しい。だから、若い人たちに任せるようにしている。彼らが動きやすいように、サポートするのが一番役に立てると感じている。うちの職場なぞ、下手すると私よりも10歳も20歳も年上の方々が現役で意思決定を左右している。そのあたりの人たちに、NOを突きつける役割を果たすべきじゃないかと思っている。
 
誕生日の夜は、妻がケーキを作ってくれて、娘から夏用のサンダルをプレゼントにもらった。しみじみとうれしい、ありがたい。

円仁(えんにん) 唐代中国への旅 「入唐求法巡礼行記」の研究

中国の歴史6 で参考文献として紹介されていたので読んでみた。
 
天台宗の僧、円仁(後の慈覚大師)は、838年に最後の遣唐使として日本を出発する。密教の聖地である天台山を参拝し最新の密教を学んで2年程度で帰国する予定だったが、実際に戻ったの847年。最初、揚州に上陸したものの、目的の天台山に行くことは許されず、長安で皇帝に拝謁した大使一行と同じ船にのって日本に帰らされそうになる。帰りの船が山東半島に差し掛かったところで、船から抜け出して、地元の朝鮮系の寺院に紛れ込む。彼らの協力を得てなんとか、五台山をへて長安に行く通行証を発行してもらい、徒歩で出発する。長安に4年滞在し、サンスクリット語や最新の密教を学ぶも、唐の廃仏毀釈の嵐が吹き荒れる。外国の僧は還俗して国外追放となり、再び揚州へと旅をする。日本へ帰る船を待つこと2年。最初に上陸したときにお世話になった朝鮮人たちが唐のお役人とのややこしい交渉を引き受けてくれ、経済的にも支援してくれたおかげで、日本行きの船に便乗して、朝鮮半島の西海岸、済州島対馬経由で日本に戻る。その間、円仁行った先の地名、何があったか、誰とあったか、どんなことを聞いたかなど、詳細な記録を日記として残した。
 
この本は、日本文化の研究者で、駐日アメリカ大使でもあったライシャワー博士が、円仁の日記をもとに、年代記など当時の他の資料で補足しながら、円仁の足跡をたどる。ライシャワー博士は、この当時、自分の見たこと、聞いたことをそのまま記録に残している唯一無二の旅行記であり、マルコポーロの東方見聞録よりも4世紀も前に生き生きとした庶民の生活を記録した旅行記は他にないという。しかも、円仁は中国文化についてある程度予備知識を持って訪問し、言葉も理解できるので当時の中国の政治や宗教の情勢をちゃんと理解している。と、導入部分で円仁の「入唐求法巡礼行記」はすごいと褒めまくる。
 
確かに、政府が作成する年代記などの公式文書には、出来事の正確な日付はわかるかもしれないが政治的に重要なことしか書いてない。
 
円仁一行が揚州の運河を小舟を連ねて牛に引かせて進んでいると、たくさんの鵞鳥の集団が通り過ぎていくとか、提灯を掲げて爆竹を打ち鳴らす年末の様子など、こんな記録は唐であれ日本であれ公式文書にはない。円仁は几帳面な人だったらしく、日付と地名はほぼ正確に記載しているので、旅程を現在の地名に当てはめて再現できるのだ。
 
ライシャワー博士は、ほぼ全編「入唐求法巡礼行記」を推しまくる。旅行記好きとしては、原本を読まないわけに行かない。古本で中公文庫の「入唐求法巡礼行記」を購入。届くのが楽しみ。

中国の歴史6 絢爛たる世界帝国 隋唐時代

中国の中高生は、歴史の勉強で覚えることたくさんあって大変だということを実感する。隋の時代といえば、日本では推古天皇とか聖徳太子の時代。ようやく文字による記録がある程度まとまって作成され、日本の中高生はこのあたりから年代や人物名を覚えなければいけなくなる。一方、中国は、周の時代(紀元前1000年ごろ)には文字があるので、隋までで既に1000年以上の記録がある。
 
あたりまえのことだが、この本で認識を新たにしたのは、遣隋使や遣唐使など国の公式の使節を送っているのは、当時の政府の気まぐれで派遣しているのでなく、東アジア全体の政治情勢を勘案して、一番効果的な時期をねらって送り込んでいること。大陸とは交易など非公式の行き来が盛んだったようで、ちゃんと情報収集した上で遣唐使の派遣を決断している。そして、何も日本だけが特殊なわけでない。ベトナム朝鮮半島、西域の国々など、中国の周辺諸国と同じように、朝貢関係を結んでいる。日本史として日本からの視点からだけ考えていると、荒波を超えて遣隋使派遣してすごい。というような感覚になるが、隋唐からみれば数ある周辺国のひとつ。時代の流れのままにやるべきことをやったのだと、少し肩の力が抜けた状態で受け止められる。
 
唐から見れば、朝鮮半島高句麗を牽制するためには、高句麗と対立関係にある日本とは仲良くしておこうというという考えがあったようだ。これは、北方の異民族を懐柔したり仲間割れさせるために、外交政策を駆使して各民族と関係を結んだのと同じようなことだ。

ひぐらし

朝から暑い。せめて8時まではエアコンなしで過ごしたいと、窓を全開にして扇風機にあたりながら新聞を読んでいると、妻がボサボサの髪のまま起きてきて、「暑い。エアコンつけないの?」と聞く。一度目は、「昨日より涼しいから、もう少し我慢する。」と答える。妻が洗濯ものと着替えをして2回めにリビングに来たときには、「暑い、ガマン大会か?」とながつけるように言い放つので、仕方なくエアコンのスイッチを入れる。
 
テレビでは、地上波から衛星放送までオリンピック。せっかくなので普段見ることがない、マイナー競技を重点的に観戦しようと、アーチェリーとホッケーを見る。11時からは男子の自転車ロードレースが始まる。こちらはネット配信のみなので、パソコンで観戦。
 
スタートは「府中の武蔵野の森公園」。最初は府中の街をパレードする。大國魂神社の境内を走り抜けたのには魂消た。手水舎の横をかすめて自転車の大集団が走っていく。郊外のラーメン屋さんや家電量販店の看板を背景に、ツールやジロを走った選手たちがパレードする景色も味わい深い。ネット配信はアナウンサーがつかないので、中継のオートバイがひろう沿道で応援している人の声やら、ヘリコプターのパタパタいう音が垂れ流しになっているのも臨場感があってよい。
 
エアコンを聞かせて、本を読みながら、居眠りをしながら、中継の画面を眺めていた。東京の街を脱出すると、木々が生い茂る中を集団が往く。集団の前からと、後ろからオートバイが撮影し、上空からはヘリコプターが中継する。ツール並の充実した映像は、アナウンスなしの絵ヅラだけ眺めていても飽きない。
 
先週までやっていたツールと違い、街並みはバラバラで、店舗の看板で覆い尽くされているけれど、山中のむせ返るような濃い緑や、富士山麓の草原を駆け抜ける集団を、上空から撮った景色が美しい。午後も遅くなって、峠をかけのぼる選手の正面からの西日がさす中、ひぐらしがかなかなかなと鳴く声も趣深い。
 
雰囲気だけでも味わおうと見始めたロードレース、結局、6時間ほぼ全部観戦してしまった。