道徳感情論
4年ほど前に購入して、何度も読み進めようとしたものの、毎回、100ページを過ぎたあたりで挫折しほったらかしになっていた。今回は不思議と調子よく読み進められた。
みんなが自分の利益のことだけを考えて商売をすることが、結果として社会全体に必要な物を行き渡らす事になる、いわゆる「神の見えざる手」を唱え、近代経済学の祖と言われるアダム・スミス。彼は「国富論」を書く前に、徳とは何か、社会の規範や道徳はどこから、どのように発生したのかについて、この「道徳感情論」で考察している。合理的な経済人を想定する近代経済学の基礎には、社会がどうあるべきかについての倫理的な基礎があったことを自分で確認したい一心で、ようやく最後まで読むことができた。
ある行為が望ましいことか、そうでないのか。道徳的に正しいのか正しくないのか。そのような判断の基盤に、他人の考えをその通りだと思う、「共感」があるという。共感とは、他人にとっての良い出来事を共に嬉しく思うこと、あるいは、他人にとって悪い出来事を共に悲しく思うことだ。同じように感じることなのだが、自分だったらこのくらい喜ぶだろうなと感じるよりも、甚だしくかけ離れて、他人が喜んでいるのを見ると、共感できない。喜ぶにしろ、悲しむにしろ適度な程度というものがあるだろうという。これを「適合」という。
どんな態度が適合的であるかについては、法律のような基準があるわけでなく、状況次第だという。この適合性から、道徳や義務、規則などが生まれているのだというのが、アダム・スミスの考え。
スミスは、自己の利益を確保しようと行動するのは、社会全体の規範に適合する限りにおいて問題ない、当然のことだという。また、適合的であろうとする意思が重要なのであって、適合しようと行動した結果が不本意なものに終わったとしても、それはその人に責任ではない。結果は仕方ない。個人の行動が失敗することも含めて、神は世の中全体がうまくいくように差配しているのだから気にするなという。
この辺は、「神の見えざる手」に繋がっていく取っかかりかもしれない。
とりあえず一通り目を通したけれど、スミスの言ってることが断片的にしか引っかかってこない。全体の流れをちゃんと理解するに、もう一度じっくり読み返さなきゃ。
コロナショック・サバイバル 日本経済復興計画
ラディカル・マーケット 脱・私有財産の世紀
遊穂
この前の日曜日に彦三の酒屋「カガヤ」さんへ連休中に飲むお酒を買いに行ってきた。いつもなら4合瓶で買うのだが、しばらく家に篭ることだしと、買い物の回数を減らさなきゃいけないしと言い訳して一升瓶で買った。買ったのは羽咋市の御祖(みおや)酒造の「遊穂」の純米酒。
料理に寄り添うお酒を目指すとホームページで言っているように、晩御飯を食べながらいっぱい飲むにはちょうどいい。気を張らず、気にせずに毎日飲める。冷やでも燗酒でも合う。そんなに高い酒でないけれどしっかりした味で飲み飽きない。
石川県内の酒蔵が一同に集まってお酒と料理を楽しむサケマルシェというイベントが毎年秋にある。何年か前のサケマルシェがえらく寒い日で、燗酒が飲みたくて、たまたま立ち寄った御祖酒造のブースでこの遊歩の燗酒を飲んで以来好きになった。
建築の東京
鳴和の滝
コロナウイルスが騒動になって以来、ランニングは控えている。人とすれ違うときに、走りながらウイルスを撒き散らしているような気分になるからだ。ただ、体は動かしたいので、休みの日は1時間は歩くようにしている。今日は東山から鳴和にかけて歩いた。
まずは、小橋から東茶屋街へ歩く。散歩している人が多い。向こうから歩いてくる男女の二人連れの男性がこちらをじっと見ている。私がマスクをつけ忘れたから睨まれているのかと思っていたら、マスクを外して挨拶をされた。仕事でお世話になっている社長さんだった。曖昧にこんにちはと挨拶する。にこやかに5分くらい世間話でもすればいいものを、慌ててどうもどうもと頭を下げながらすれ違う。知り合いとの突然の邂逅というのは、何を話せばいいのか咄嗟に思いつかないので、何がない会話を交わす難易度が高い。
観音町を通り抜けて、宇多須神社前から東山2丁目へ歩く。ここは洋菓子のエルパソがある通り。
高台にある蓮生寺から街を望む。卯辰山の裾野に広がる東山2丁目から山の上にかけては、急斜面にお寺や民家が密集し、その間に車が入れない細い路地が張り巡らされている。
車の通りも少なく高低差があり景色の変化に富んでいるので、散歩すると楽しい場所。ここは、とあるお寺の山門。
長屋。左側の2軒は窓枠が木製。きれいに住まわれている。
山の上の路地裏。トタンの錆び具合が素敵。
山の上の交差点近くから旧北国街道を歩いていると、「石川縣十名所義經旧蹟鳴和瀧」石碑を発見。義経ゆかりの滝、しかも石川県の名所ベスト10にも入っている有名な滝なら一度見ておかないと、と脇道にそれて滝を目指す。山に向かってダラダラと坂道を登こと5分くらい。神社の脇に鳴和滝を説明する石碑があった。
義経、弁慶の一行が安宅の関を通ったあと、もうここまでくれば大丈夫だろうと休憩、酒宴をした場所らしい。歌舞伎の勧進帳では、弁慶が「これなる山水の、落ちて巌に響くこそ、鳴るは瀧の水。」と詠む。鳴和という地名の由来ともなった滝があることすら知らなかった。滝自体は往時の面影はなく、細い樋からチョロチョロと打たせ湯のように流れ落ちるだけだった。
鳴和の交差点から城北通りを通って帰宅。所要時間1時間30分。
いなさ でボトルワインの持ち帰り
今週、栃木県日光のお肉屋さんからサラミの両端の切れ端を買った。500グラムで700円と随分安かったので生ハムの切れ端と一緒にネットで買ったのだ。サラミをつまみにワインを飲もうと、仕事帰りに酒屋に立ち寄ろうと自転車を走らせていたところ、もしかしたら、別院通りの「いなさ」でテイクアウトやってるかもと思いつきお店に行ってみたら、表に「テイクアウトやってます。つまみとボトルワイン。」と張り紙があった。お店に入るとご主人がカウンターの向こう側で仕込みをやっている。何か赤ワインをとお願いして選んでもらう。いつも飲んでいるような軽い感じのならコレかな。と勧められたのがコレ。
昔ながらの手法で丁寧に仕込んだビオワインとのことで、栓を開けたらその日のうちに飲みきったほうがいいとアドバイスされた。
家に帰りサラミの切れ端をスライスしてワインを飲んでみる。確かに軽め、でもしみじみとうまい。サラミは切れ端なので筋ばっている、でもうまい。
ぐいぐいと飲んだ。アドバイスされたとおりその日のうちにボトルを空けてしまった。
そして、みんなバカになった
橋本治が好きかどうかと聞かれると、ものすごく好きという訳ではない。なんでも根っこからひっくり返して考え始めるし、思いもかけない細かいところにこだわるので、いちいち説明が面倒くさいのだ。でも、1年に1度くらい、無性に読みたくなる。特に、これからどうしよう、とか、このままでいいんだろうかなどと、迷っている時に、橋本治は最近どんなことを言っているのだろうと、読んでみたくなるのだ。
宿無し弘文 スティーブ・ジョブズの禅僧
うちで踊ろう
先週の土曜日、1階の部屋で本を読んでいると、娘がピアノ弾きながら歌の練習を始めた。娘は高校の合唱部に所属している。今回の新型コロナウイルスのせいで、3月の上旬から部員が集合しての練習はほぼできていない。家で腹筋などのトレーニングや発声練習など、ひとりでもできることをやっている。
だから、またいつもの練習か、1時間もすれば終わるだろうと思い気にもしていなかった。ところが、2時間経っても終わらない。昼ごはんを食べた後も妻にピアノ引かせて音程を取りながら練習を続ける。私は、何時間も同じフレーズを聞かされていい加減ウンザリしてくる。娘が歌うアルトのパートは、主旋律でもないので、何を歌ってるかもよくわからず、しかも下手くそなので音程が安定しない。イライラしてきたので家庭の平和維持のためには、しばらく家を出た方が良さそうと判断して、卯辰山方面に散歩に出かけた。
夕方に帰ってきてもまだ練習している。話を聞くと、6人がそれぞれ家で歌っている姿を動画に撮って部長に送り、部長さんが編集して合唱にするらしい。夕方までに動画を送ることになっていたのだけれど、仕上がらないので待ってもらっていると言う。娘も焦っているようで、涙目でもう諦めようかと言い始める。どうせ編集するなら、音程とか尺も調整できるのだから、今の状態で送ったら。と無責任なことを言うと、もう少し頑張ってみると意地をはる。
結局、夜の10時過ぎにようやく、納得のいくものを送ったようだ。で、翌日にアップされていたのが、これ。
現在休校中である私たちにも何かできないか...と考え、星野源さんの「うちで踊ろう」の合唱版を歌わせていただきました!竹内一樹さん編曲の混声四部合唱の譜面を使わせていただきました🙇♂️とても素晴らしい譜面です✨自粛疲れの癒しにぜひ🎶#星野源#うちで踊ろう#stayhome #二水高校合唱部 pic.twitter.com/2O1vzshoFK
— 金沢二水高校合唱部🎶 (@j9UuzNKgZx2x2dY) 2020年4月19日
再生回数が1週間で7万回を超えていて驚いた。
迷うことについて
「隔たりの青」というタイトルのエッセイと、彼女の家族や恋人、友人のことをふりかえるエッセイとが交互につづられる。東欧から祖母がアメリカへ移民したあとの波乱の人生、ネバダの砂漠の一隅に引きこもる恋人を訪ねたこと、友人が自殺したことなど。
衝撃的な事件もある。人が生きていれば、誰にでもあるだろうなと思う出来事もある。それぞれ、何が起こったのかはもちろん、そこに至るまでの経過、本人との関係の変化が伝わる。表現がうまい。例えがうまい。ありありと伝わる。
全編に通底するテーマは表題の「迷うことについて」。道に迷う、人生に迷う。著者は、人は迷うことを恐れすぎではないかと言う。迷う=自分を失うことは、世の中の常識や制度、地図で把握できる部分からはみ出して、むき出しの世界と直接対峙すること。自分を全てさらけ出して、状況に任せる。迷っていることを自覚して、迷うことに慣れるべきだと言う。
突然だが、私の妻は迷うことが得意だ。出かける時は行き先の詳しい状況は調べないし、どうやっていったらいいかも適当なままとりあえず出かける。スケジュールも適当でいった先で面白いものを見つければ、気がすむまでそこで時間を過ごす。一方私は、どんなところか調べて、行き帰りの交通手段と所要時間を調べて、スケジュールまできっちり想定しておかないと安心できない。最初は、妻のあまりの適当さ加減に呆れて、イライラしていたが、ある時から、これはこれでいいと思えるようになった。道に迷ったら素直に人に聞けばいいだけの話だし、予定の時間を過ぎても、面白いと思った場所で、心ゆくまで楽しんだ方が実り多い。それで、帰りの電車に乗れなくても、大した問題ではない。そう思えるようになるのに20年かかったけどね。
なぜだろう、女性のエッセイは切れ味が鋭い。須賀敦子さんを初めて読んだ時のような衝撃。説教臭くないのがいいのかもしれない。自分が体験したことを足場に、感じたことを感じたままに語るのがいい。
何を優先すべきか
執念深い貧乏性
栗原康さんの本には中毒性がある。粗野でガサツな言い回しで、一見何ら関係のない体験談、例えば実家で飼っていた猫がおじいさんに捨てられたけれど、3日ほどで戻ってきた話、長渕剛の「Captain of the ship」歌詞の引用が続いて、安心していると話が急展開してズバッと核心を突かれて驚く。それが面白くて、次の章、次の章と読み進めた。
国家、会社、家族、夫婦、これらの制度は全て、誰かを奴隷として支配して、死ぬほど働かせて、富を収奪するための仕組みだ。と著者はいう。人と人との間に敷居を設定して区分けして支配するための制度なのだから、支配者と話し合って改善すれば、良い国家、良い会社、良い家族、良い夫婦になるなんてことはありえないのだ。また、支配されている側が、権力を握って支配する側にまわったところで、支配者が変わるだけで、死ぬほど誰かを働かせて、おいしいところを持っていくという構造は変わらないのだ。それは、プロレタリア独裁のソ連で何が起こったかを見れば明らかだ。
では、アナキストである著者はどうすればいいと言っているのか。本の帯に「自分の人生を爆破せよ。」とあるように、国家や家族など支配のための敷居をぶっ壊してしまえ、そんな支配の仕組みを当然のものとして受け入れている自分もぶっ壊してしまえ。そして、逃げて逃げて逃げまくれと言う。真正面から戦うのでなく、土俵自体をぶっ壊してしまえ。国家とか経済とかの力がおよばない暮らしはいくらでもできると言う。
国家が奴隷を強制的に働かせて、単一の穀物を大量に作らせて収奪する仕組みで合ったこと、そんな国家から逃れた人々が、国家の側から、いわゆる「少数民族」と位置付けられて差別されてきたことは、ジェームズ・C・スコットの「ゾミア」を引用しながら説明している。
本書には登場しないが、国家が奴隷制を前提として成立したことは「半穀物の人類史」にも詳しい。奴隷を大量に一箇所に集めて、単一の穀物を大量生産させることによって、不衛生な生活環境による疫病の発生、農作物への病害虫の発生、山賊による収奪を招き寄せることになったのだ。国家が成立することよって庶民の生活が豊かになっていない。かえって貧しく、栄養状態も悪くなっているのだ。
また、国家が安穏と存続している期間は、人々の格差、不平等は拡大していくばかり、戦争や革命、疫病の大流行によって国家の根底が崩壊したときくらいしか、格差が解消される方向には動かないのだ。このことは、(「暴力と不平等の人類史:戦争・革命・崩壊・疫病」)
この前の戦争に負けて、国がひっくり返ってから75年。政治も経済も敗戦後にできた仕組みがそのまま受け継がれて、そんな仕組みが生活のあらゆる側面に影響を拡げている。ああ、息苦しい。特に、政治は75年間積み重ねられてきた既得権益のしがらみにがんじがらめで、どうにもならない。
本書のから、印象的だった部分を引用する。
未来のために、今を犠牲にするのはもうやめよう。時間奴隷はもうたくさんだ。というか、そうやって人を奴隷にするやつやが支配者なんだ。
革命とは敷居を除去しようとする集合的運動だ。
はじめからやっちゃいけないことなんてない、いっちゃいけないことなんかない、自由だ。ひとはなんどもできる、なんにだってなれる。
そんでもって、この合理性の過剰こそが連続殺人をよびおこしたのだ。こういっておこうか、経済は尺度のポリスである。市民ポリスはファシストだ。警察ぶったブタやろう!