野菜コンソメスープ
白山ろく民俗資料館
食べたくなる本
玄米スープ
4月に入ってから妻が。辰巳芳子さんのスープをまとめた料理本「あなたのために」の一番最初に登場する、「玄米スープ」を作るようになった。小麦色になるまで弱火で丁寧に炒った玄米を昆布と梅干しと一緒に煎じスープだ。じっくり弱火で30分煎じている間にも玄米の香ばしい匂いが部屋に満ちる。口に入れるとじわっと体に染み渡っていく。スープだけをカップに一杯飲んだだけで不思議な満足感がある。体に必要な成分が濃縮されているからだろうか。煮出した玄米は出涸らしで味はほとんどないけれどじっくり噛み締めるとなんとも言えない滋味なので、一緒に食べると腹持ちもいい。妻が始めたのだけれど、私の方がはまってしまい毎日朝起きると私が準備している。
天然知能
こんかこんかと輪島物語
茂原でソフトクリーム
フライドエッグトースト
土曜の朝に思い立ってフライドエッグトーストを作ることにした。目玉焼きをトーストにのせるだけの料理とも言えないような料理なのだが、武蔵ヶ辻にあったOH LIHEさん風に、目玉焼きとパンの間にマッシュポテトを敷き詰めるのだ。
じゃがいも4つの皮をむいて茹でる。柔らかくなったらスリコギで滑らかになるまで潰して牛乳とバターを入れて煮る。別院通りの「いなさ」で食べた猪シチューの付け合わせのマッシュポテトのようにもっちりとした食感を目指したのだが、さっくりした舌触りになってしまった。もっと煮込んだらよかったのだろうか。
目玉焼きは半熟とろとろに仕上げたいので、フライパンにつきっきりで火の通り具合を確認しながら焼く。同時にパンを焼き始める。全部出来上がったところで、パンにマッシュポテトを敷き詰めて、その上に目玉焼きをのせて完成。
流れ出した卵の黄身がポテトに染み込んでおいしいんだ。これが。
なぜ世界は存在しないのか
全ての事物や空間、人間が考えたことなどありとあらゆるもの全てを含んだ「世界」は存在しない。なぜなら、世界の外に世界に相対して、世界を意味付ける何かがないことには世界という言葉の意味が定まらないからだ。あるものの意味はそれ単独では定まらない、他の何かとの関係性によって決まるからだ。
となると、何もかも、全てを含む「世界」というものを意味付けることはできない。世界の外に世界と相対するものがあるのなら、それは世界に含まれることになるからだ。
様々な意味を成立させる場がたくさんあるのであって、世界という実態が、ポンと一つある訳ではない。
物事の関係性で決まる意味の場があるだけなのだが、全ては相対的であって事物は実在していない、ただ我々にそのように立ち現れているだけなのだ。というのでもない。確かにそこに林檎は存在するし、地球も太陽も宇宙も存在する。科学的手法により確かめられる事象は確かに存在する。他の人と合意できる概念は存在する。
著者は、事物だけ存在して概念は脳の中の化学反応の状態に過ぎないと言うのでもない。反対に、事物そのものは全く存在しておらず、我々がそのように頭の中で構築しているだけという立場でもない。個別の意味の場において事物は実在する。そんな意味の場がたくさんあるのだ。
浮世に言い忘れたこと
失われた時を求めて(4) 花咲く乙女たちの影に
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反脆弱性 不確実な世界を生き延びる唯一の考え方
数学
来週には公立高校の入学試験だというのに、娘は相変わらず数学に苦労している。昨日塾へ送っていく車中では、数学の過去問をやっても50点以上にならない、学校から帰ってきて金沢情報を見てから勉強しようと思っていたのだけれど、急に悲しくなって机に座って泣いてしまったとボソボソ言っていた。相当に追い込まれているようだ。安易に慰めの言葉をかけたところで、鋭い娘のことだから反発されるだけだろうと意識しすぎて、「そうか、大変だね。」と他人ごとのような返事をしてしまった。
思い返してみれば、彼女は小学校4年生くらいから算数が苦手で、いつも補修クラスに入れさせられていた。そのうちにわかるようになるだろうと放置しておいたのがよくなかったのかと、そろばん教室に通わせておけばと、今更後悔してみても詮無い。きちっと考えようとする姿勢はある。でも、ちょっとわからない所に出会うと、そこから先へ屁理屈をこね回してでも進む力がない。結局はよくわかっていないということか。
今のところ、目覚ましい成果は現れていないけれど、彼女のこの1年間の勉強ぶりは大したものだと思う。なんとか苦手な数学と理科を克服しようと毎日コツコツと取り組んで、わからないところは学校や塾の先生にもうんざりされるくらい粘り強く質問していた。支払った月謝のもとは十分に取ったと思う。
残り1週間。心穏やかに受験できるように見守っていたい。それしか出来ないのだが。
甘栗
日曜日に義父の誕生日プレゼントを買いに、妻と駅前のモンベルに行った帰り道、別院通りを歩いていると、「甘栗 金澤堂」という看板を見つけた。ガラス越しに中を覗くと、入口脇に甘栗を煎る釜が置いてある。その右手がショーケースになっている。観光客と思しきリュックサックを担いだ男女二人連れが、お店の人と話しながらお金を払っている。香ばしい香りがしてくるので、中に入ってみようかどうか迷っていたところ、「今ひとつ剥きますから食べて行ってください。」と中から声をかけられ、思わず入ってしまう。
ショーケースには「小、750円」、「中、1400円」、「大、2100円」の3種類の紙袋が並んでいる。その横には贈答用の箱を唐草模様の風呂敷で包んだ物がいくつか並んでいる。
店主の方だろう、私と同年代の50歳前後の男性が栗を向きながら色々と話を聞かせてくれた。富山県の高岡市で春日堂という甘栗屋さんを35年前から続けていて、2月1日から金沢に出店したそうだ。甘栗だけで商売になるのかいな、と思いながらお話を聞く。実は手土産に甘栗を使う人が年配の人に多いらしい。昔はデパートの食品売り場で煎りたての甘栗を売っていたのだが、今はどこも止めてしまったそうで、金沢の甘栗好きは通信販売かスーパーで売っているので我慢していたらしい。富山のお店はそんな甘栗マニアの受け皿となっていて、金沢からもわざわざ買いに来るお客さんがたくさんいたそうだ。それもあって、金沢に出店したとのこと。2月1日にオープンして、まずはPRを兼ねてご近所に煎りたての甘栗を配ったそうだ。そのおかげか、順調にお客さんも増えていて、朝に煎った甘栗を余らせたことがない。リピーターも多く、2、3日前に小松からタクシーを飛ばしてやって来て、1万円分買っていったおじいさんがいたそうだ。
剥いてもらった甘栗はたしかにほんのりと甘くて後味すっきり。何個でも食べたくなる味だ。艶を出すために水飴をかけながら煎るのでので、ピカピカとして見た目も食慾をそそる。
宵越しの甘栗は売らないのがモットーで、朝に煎った甘栗はその日に売り切ってしまい翌日には持ち越さないと、何度も話されていた。
物は試しと、「中、1400円」を買って、家でお茶のお供に食べてみた。煎りたてだからだろう、まずは皮が剥きやすい。爪を立てるとパキッと音がして切れ目が入る。割れ目を挟むように両脇がら抑えると、パカっと皮が開いく。ちょっと力を入れすぎて、一つ目は実が半分に割れてしまう。身を掘り出すようにして食べる。ふたつ目は手加減してたので少し渋皮は残ったものの壊れることなく実を取り出すことができた。うまい。3つ目はきれいにポロリと剥くことができて、そのまま口に放り込む。
お店の人は甘栗は3粒目が1番うまいと言ってた。口も甘栗に慣れてくるし皮を剥くのも3粒目くらいには上手になるので、たしかに3粒目が1番うまい、ような気がした。
そう言えば、お盆や正月など一族が集まる機会があると母は必ずスーパーで甘栗を買っていた。今度実家に行く時には手土産にしてみよう。